病棟では、私のステージなら5〜7日間以内に退院していく方がほとんどで、16日間以上も入院するのは、放射線治療に遠方で通えない方や、ステージの進んだ患者さんでした。



 手術の朝、見送る夫と別れて分厚い壁の先にあった手術前室は、想像とは全く違い、広くて明るくて、窓のない体育館のようでした。そこは手術を受ける人、看護師さん人達で混雑していました。


 その異様さの中、息子より少し年下に見える手術服を着た小さな女の子が目に入りました。横にいたのはお母さんだったのでしょう。
2人はそこで楽しそうに話をしていました。
まるで今日の手術は日常の一コマのように。
手術室に呼ばれるまでその風景が私の目に焼き付いていました。
その一コマがそこまで私の心に残ったのはなぜなのか。
息子よりも小さな子が病気になっている事へ感じた不条理に?
大の大人の私が手術に恐怖を感じ、同じ立場のその子に感じた申し訳なさに?
心に残った理由がお母さんだったと思ったのは、手術後でした。
小さな娘さんの屈託の無さは、お母さんの心根、娘さんへ接し方だと

 −私もそうありたい

 

 ICUの近くにある個室の名前はずっと同じ名前の女性でした。


放射線治療のため1ヶ月以上ここに入院している斜め隣のベッドのAさんが教えてくれました。
 「この部屋の患者さん、高校生やねんよ。可哀に」 

それから何日か後に、初めて彼女の後ろ姿を見かけました。 Tシャツにジャージ、細身で背中までの髪は艶やかでした。 彼女が個室のドアを開けて、入ろうとした時にベットの足元に吊るされてる千羽鶴が目に入りました。きっと万羽もあるかのような沢山の鶴たちでした。




 手術をして数日後から、ドレーンから流れ出るべき液体が乳房内で凝固してしまいました。主治医の先生が首を傾げながら、研修医の方にドレーンの入り口を再切開して凝固を溶かす液体を注入するように指示しました。


研修医の方がハサミのような物で胸を切る時の
「ジャキッ」

という音と、部分麻酔が効いていて痛みを感じない自分の感覚に、恐怖を感じました。

この作業は私が退院する前日まで数回行われました。


 

 手術が終わって1週間たってもドレーンが外せず、同じ頃に入院手術し、がん友になった方達はAさん以外はほとんど出所(規則正しい生活と、病気への恐怖のストレスが刑務所からのと似ていると、当日は「退院」の代わりに「出所」を隠語として使っていました)していきました。 


 

 その中、抗がん剤治療のために長期入院をしている入院患者さんと知り合いました。 ピンクのタオルで綺麗にお姉さん被りをしていて、あまり感情を表情に出さない方でした。 Aさんとその方は、いつも食堂で一緒に食事をしていて、私もよくご一緒し、たわいもない会話をしていました。 その方にお孫さんがいる事も話してくれました。



Aさん 「あの人、今年、最初の乳がんから20年経って再発してんよ。 20年経っても再発ってするんね。 気の毒に」


再発」は、「転移」「ステージIV」と同様私たち乳がん患者にとって、最も恐ろしい言葉の一つでした。これらは、その当時はもう治らない通告だと思っていました。 


 −わかっているのよね.


しばらくたって、その方が食堂にたったお一人で椅子に座り窓の外を見ていました。 後から声を掛けようとした時、声が聞こえました。


 「・・焼け ・・・・てみたのは・・・か」 



少し掠れた声で途切れ途切れに童謡を歌っていました。

その日窓から見えた夕焼けは、とても綺麗でした


数日後 その方は亡くなりました。


その日、ICUが騒がしく、私の主治医、研修医、乳腺科長、看護師さんたちが、慌ただしくICUを行き来していました。 

 「亡くなった人は、再発して入院してたあの人やったんやね....」
Aさんはそれだけ言って、それ以降その方の話は2度としませんでした。


急変した原因は不明だったそうです。


数日前までは全く普通で、一緒に食事もしたのに..


 それから私は鼻歌を歌えなくなりました。