なぜこの世に善と悪があるのか?神が完全であるならなぜ悪が作られ、また現時点でも悪が存在するのか?についてシルバーバーチの言葉を引用してみます。

 

 

自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。悪も進化の過程の一翼を担っております。改善と成長、絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。改めるべき間違い、闘うべき不正が在存しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう?


 

 

神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけでなく嵐も法則の支配を受けます。晴天の日だけ神に感謝し雨の日は感謝しないものでしょうか。太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から悪魔の存在を想定しました。神は法則なのです。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在できません。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できる性質は僧しみを表現する時に使用する性質と同じものなのです。

病気にさせるものがあなたを健康にもするのです。愛させるものが憎ませもするのです。すべては神の法則の中で表現されていきます。それが人生のあらゆる側面を支配しているのです。

 

私は悪とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、従って物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない人間なのです。利己主義とは、利他主義が方角を間違えたにすぎません。

 

シルバーバーチの霊訓

 

実際に私たちの生きている世界では善悪の二元があり、私たちのごく普通の一般的な倫理観として邪悪であると感じるものが誰にでもあるはずです。

 

よくなぜ神は邪悪なものを放置するのか?という疑問を目にしますが、そういったものを通してでしか得られない経験があるからだと思います。

 

皆さんは過去に辛い経験をしたことがあったけれども、その時の辛い経験があるからこそ今の自分の成長があると思うことは無いでしょうか?もしその経験がなかったとしたら皆さんのその成長はまるっきりなかったことになります。

 

苦しいことや辛いことの最中にあるときはそんなことを考える余裕は無いかもしれませんが、安楽に過ごした毎日よりも困難や苦労に立ち向かった経験を通してこそ人間は成長できるわけです。

 

 

さて、このことから1つ考えが浮かびます。人間は霊と肉体の2つでできていますが、肉体は食べたもので作られ成長するけれども、霊は一体何で作られ、どうやって成長するのでしょうか?人間的な表現をするなら精神的な生命体である神、または霊はどうやって成長していくのでしょう?

 

 

小さな子供はご飯をいっぱい食べてそれが血や肉となって立派に(物質的な肉体の部分は)成長していきますが、霊はものを食べません。霊や精神を成長させるのは言うまでもなく経験です。

様々な出来事を通してそれまでにない体験を積み霊は進歩します。それはかつて皆さんが辛い苦しい経験をしたからこそ進歩や成長出来たこととよく似ています。

 

もし何も学ぶべきことがない安楽で怠惰な生活を続けていれば、そこには何の進歩も向上もなく退屈と緩やかな腐敗あるだけです。それは精神的な生命体である霊にとってある種の(肉体的な意味とは違いますが)死を意味します。

 

 

もし、我々の住む世界が善一筋の世界であったならどれほど素晴らしい世界であるのかと思う人はいるでしょう。悪というものがなければ世界は平和と幸福に満ちた素晴らしいものであるはずです。

 

多分創造神が最初に宇宙を作った時はそのような世界であったのではないかと思います。しかし一元的な善のみの世界では様々な体験を積むための元素材が限られています。全く成長できないわけでは無いのでしょうが元となる素材や条件が1種類しかないのである時点で限界に到達したからこそ、創造神は善と悪の二元的な世界を作ったのだと思います。

 

 

つまり、悪を通してでしか経験できない体験があり、困難や苦労や敵がいるからこそできる経験があるわけです。もしこの世から悪が消えてしまったら貴重なその体験を積むことができません。寿命と言うものが存在しない霊にとっては無限に新しい経験を積んで成長して行かなければなりません。新しい体験を何も積めなくなる時、それは精神的な生命体である霊にとって終局を意味し、つまりは死となります。

 

 

 

すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。意義ないものは存在ゆるされん。それを人間心で、邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でゐるから、いつまでたってもドウドウめぐり。それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考へ方や、処理方法や、いろいろの運び方によってしるのであるから、心せねばならんぞ

 

ひふみ神示

 

 

良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の糧となるのです。

 その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も───暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが───克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えられないほどの試練や危機に直面させられることはありません。

 

 

いかなる体験も魂の成長にとっては何らかの役に立つことを知ります。その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。あなた方もいつかは私達の世界へお出でになりますが、こちらへ来れば、感謝なさるのはそういう暗い体験の方なのです。

視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有難く思えなくても、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明して差し上げることはできませんが、こちらへお出でになればみずから証明なさることでしょう。

 

 

シルバーバーチの霊訓

 

 

ルバーバーチの「いかに暗い体験も───暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが」と言うのはまさにその通り思います。

人間は全く同じ経験をしても、ある人は軽々とそれを乗り越えある人は嘆き悲しみます。全く同じ境遇に置かれても大人はなかなか新しい環境に適応できないことがありますが、子供は大人に比べると比較的早く新しい環境に順応することが多いです。

 

 

しかしそうは言っても実際に苦しいあるいは辛い経験をしていれば楽になりたいと思うでしょうし、それは全く普通のことだと思います。そこが我々の霊的な成長のポイントです。怒ったり、嘆いたり、悲しんだり、ふさぎこんだりしてその物事に対応するのか、勇気を持って明るい気持ちで神に全てを任せて取り組むのかで両者は全く同じ困難に直面しても大きく結果は違います。

 

 

ある物事に直面したときにそれを困難と感じるのであればそれは我々が霊的に成長するために用意されたある種のカリキュラムと言えるかもしれません。首尾よくそれを乗り越えれば新しい経験を積んでそれまでにない新しい力を身に付けることができるでしょう。次に同じ体験をした時は1度目よりも簡単に乗り越えることができるかもしれません。

 

 

シルバーバーチの言葉を借りるなら、気に食わないと感じなくなるわけです。同じ目にあっても、文句をぐちぐち言う人もいれば軽々と、あるいは粛々とその問題を片付けることができる人もいますし、自分では腸が煮えくり返るような腹の立つことでも別の人は笑って許すことができるかもしれません。ここに霊的な進歩の違いがあるわけです。

 

 

自分の目から見てどれほど邪悪と感じ悪魔的に見えたとしてもそれにはそれ相応の意義があり、最高神がそれを許しているから存在するのであれば私たち人間としてはそれに腹を立てたり、あるいは嘆き悲しんだりせずに神を信じて一つ一つ前向きな気持ちで明るくそれらに取り組んでいくしかありません。

 

 

そうやっていた経験は存命中にも成長につながるでしょうし、死後の世界においても自らの霊的な成長を促す貴重な経験だったと振り返る時がきっと来るでしょう。

 

こういったことを口で言うのは簡単ですが魂に染み込んで自分の人生で何があってもそのように思えるように、あるいは行動できるようになるには相当強烈な体験が必要です。少なくとも私の場合はそうでした。

もちろん今でも大変だと思う事はありますし辛いと思うこともありますが、それが自分の霊的な成長の視点から見て足りないものを補うためであったり、欠点を克服するためであったり、あるいは過去のカルマの清算であったり、様々なケースがあるでしょうが、神を信じて、怒ったり悲しんだりせず明るい気持ちで前向きに取り組むしかありません。神はきっと我々を見捨てたりする事はないでしょう。

 

 

人生においてはいろいろなケースがあるので物質的な視点からのみを見れば決してハッピーエンドと思えないような人生があるかもしれませんが、死後の世界においてはそのような前向きな気持ちで神を信じて勇気を困難や苦労に立ち向かったことがきっと良かったと思える時が来るのではないかと思います。

 

 

本当に心のそこからそのように生きることができるなら、その時はかつての困難はもはや困難ではなくなっていると言えるでしょう。