やはり病気は自分で治せるのでしょうか?
「治せるだけでなく現に治しております。魂の優位を主張し肉体という下等なものによって束縛され抑えられることを拒否することによって病気を追い払うのです。身体を従者にするのです。主人にしてはなりません。誰にでも出来ることです。
ですが、大部分の人間は頭から出来ないものと思い込んでいます。だから出来ないのです。肉体は精神の従僕です。精神は肉体に隷属しているのではありません。肉体は束の間の存在であり精神は永遠の存在です。肉体はいずれ朽ち果てます。精神が宿っている間だけ現在の形態を維持している一時的な存在です。それがその人ではありません。
その人の表現体であり、道具であり、地上で認識して貰うための手段です。その肉体が精神によって歩きまわることを教わり、筋肉を動かすことを教わり、血液を循環させることを教わり、心臓を鼓動させることを教わり、内臓の全ての機能を働かせることを教わった如くに、今度はそのリズムを狂わせている機能に本来のリズムを取り戻させることによって病気や疾患や異常を無くしてしまうことが出来るはずなのです。
ということは誰でも自分で健康を回復出来るということでしょうか?
正にその通りです。但しそのためには〝自分は神である。無限の創造活動の一部を担う存在である。全生命への責任を担う霊的存在である。本来は完全なる霊なのだ〟と宣言できる段階まで悟りが出来なくてはなりません。
シルバーバーチの霊訓
シルバーバーチは自分で病気を治すことが可能ではあるが、そのためには自分自身が神であるという理解を得ないといけないと言っています。
これについて出口王仁三郎の著作から引用してみます。
万物の精神は神の
体の側から論ずる時は万物万称であるのも霊魂上より論ずる時は生き物に宿してある精神は皆霊魂であって神の分霊である。すなわち霊魂そのものは神なのである。
出口王仁三郎 本教創世記
物質的な側面から見れば現れは無限ですが、霊的な側面から見ればすべては究極神の分霊であり、すなわち神であり、それが虫けらや草木でも、太陽や月でも、あるいは人間でも霊的な側面から見れば神の一部であるということです。
神の分霊が物質を通して太陽と現れ、月と現れ、大地と現れ、草木や虫とも、そして人間とも現れているわけです。
但し人間という物質の肉体を持つ以上は物質の影響を必ず受けます。
『成程、感心致しました。吾々は到底容易に肉体を脱離した所で、天国の住民になるのは六ケしいものですなア。いつ迄も中有に迷ふ八衢人間でせう。実にあなた方の光明に照らされて、治国別は何とも慚愧に堪へませぬ』
156『イヤ決して御心配は要りませぬ。あなたはキツト或時機が到来して、肉体を脱離し給うた時は、立派なる霊国の宣伝使にお成りなさいますよ。如何なる水晶の水も氷とならば忽ち不透明となります。あなたの今日の情態は即ち其氷です。一度光熱に会うて元の水に復れば、依然として水晶の清水です。肉体のある間は、何程善人だといつても証覚が強いと云つても、肉体といふ悪分子に遮られますから、之は止むを得ませぬ。併し肉体の保護の上に於て、少々の悪も必要であります。精霊も人間もヤハリ此体悪の為に現界に於ては生命を保持し得るのですからなア』
霊界物語 第47巻 第一八章 一心同体〔一二五一〕
シルバーバーチも光が完全でも鏡が曇っていれば反射される光は完全ではなくなるとか、光にガラスの半透明のコップを被せると光が鈍くなるなどの例を出していますが、神としての霊は完全でも肉体を持つ以上は清らかな水も氷れば不透明になるように顕現としては不完全なものになります。
シルバーバーチは物質としての人間は神の顕現・表現としては最も低い段階と述べていますので今の人間が「自分は神である」とまで思えるのはよほど自惚れて勘違いしているか、本当に正真正銘自分の霊も神の分霊であると理解している人のどちらかでしょう。
例えあなたから見て極悪人やキチガイと呼ばれるような人であっても神の分霊であることには変わりありません。天体でも、動物でも、小さな虫でも皆すべて神の分霊です。
あなたは「自分は神ではない。そんなわけがない」と言うかもしれませんが、霊魂上から見ればあなただけが神から独立した別個の存在であり、神同様に独立したであるわけではありません。
例としての私たちは究極的にはみな同じ神の分霊であり、無限の現れを持った1つの霊なのです。シルバーバーチはよくダイヤモンドの幾つもの側面と例えますが、表現の仕方はどうあれ霊としての自分は神の一部なのです。
であるならば神として少しでも相応しい日常生活や振る舞い、考えを持たねばなりません。例えば人に親切にしなければならないと頭では理解しつつ、実生活ではそれが伴わないとか、家の掃除の重要性を理解しつつ面倒がってやらないというのは果たして神として誇れる行動であるかどうか?ということです。
頭ではわかっていても実際の行動が伴わないのは本当の意味で魂のレベルまで理解しているとは言えないでしょう。多分シルバーバーチのいう「自分は神である」という意味ではそういうことだと思います。
口先だけでいくら都合の良いお題目を並べても駄目なのは常識で考えればわかることです。
霊的には無駄に無意味に病気になることはなく、病気には必ず何か学ばなければならない教訓があったり、過去のカルマを果たす目的があったりするので、どのような状態になろうともまず一旦のところはそれを受け入れ、その後でどのようにそれを処理するのかを考える必要があります。
霊的なヒーラーの方は先天的な才能として他人の病気を治す能力があり、シルバーバーチもそれに付いて幾らか述べています。他人の病気を治すには先天的な肉体の特性や生まれてくる前にそうなることを計画している必要性があるようです。
しかし自分の体についてはかつて赤ん坊だった頃に霊が体に歩き方や走り方を教え込んだのと同様に、霊は体のあらゆる不調を正常に戻すことが出来るのでしょう。両者は基本的に同じことだからです。
またひふみ神示では次のように述べています。
ひつくの神にひと時拝せよ、神のめぐみ身にも受けよ、からだ甦るぞ、神の光を着よ、み光をいただけよ、食べよ、神ほど結構なものないぞ、今の臣民 日をいただかぬから病になるのざぞ、神の子は日の子と申してあらうがな。
病あるかないか、災難来るか来ないかは、手届くか届かないかで分ると申してあろがな。届くとは注ぐ事ぞ、手首と息と腹の息と首の息と頭の息と足の息と胸の息と臍の息と脊首の息と手の息と八所十所の息合ってゐれば病無いのざぞ、災難見ないのざから、毎朝 神拝みてから克く合はしてみよ、合ってゐたら其日には災難無いのざぞ、殊に臍の息一番大切ざぞ、若しも息合ってゐない時には一二三(ひふみ祝詞のこと)唱へよ、唱へ唱へて息合ふ迄 祷れよ、何んな難儀も災難も無くしてやるぞ、此の方 意富加牟豆美神であるぞ。神の息と合はされると災難、病無くなるのざぞ、大難小難にしてやるぞ、生命助けてやるぞ、此の事は此の方信ずる人でないと誤るから知らすではないぞ、
病治してやるぞ、神息吹つくりてやれよ、神いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ。
みぐるしき霊には みぐるしきもの写るぞ、それが病の元ぞ、みぐるしき者に、みぐるしきタマあたるぞ、それで早う洗濯掃除と申してくどう気付けておいたのぞ。
松食せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠の松心、松の御国の御民幸あれ。
先づキ整へて暫し目つむり心開きて一拝二拝八拍手せよ、又キ整へて一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたり)と言高くのれよ、又キ整へてひふみ三回のれよ、これはこれは喜びの舞、清めの舞、祓の歌であるぞ。世界の臣民 皆のれよ、身も魂も一つになって、のり歌ひ舞へよ、身魂(みたま)全体で拍手するのざぞ、終って又キ整へて一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十百千卍と言高くのれよ、神気整へて天の日月の大神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、これは祈るのざぞ、九二のひつくの神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、終りて八拍手せよ、次に雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、百々の神様、世の元からの生神様、産土の神様に御礼申せよ、終りてから神々様のキ頂けよ、キの頂き方 前に知らしてあろがな、何よりの臣民人民の生の命の糧であるぞ、病なくなる元の元のキであるぞ、八度繰り返せと申してあろ、暫くこのやうに拝めよ、神代になる迄にはまだ進むのざぞ、それまではその様にせよ
元の大神様に御無礼してゐるから病神に魅入られてゐるのぢゃぞ、洗濯すれば治るぞ、病神は恐くて這入って来られんのぢゃぞ、家も国も同様ざぞ。
何事に向っても先づ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力 加はるぞ。道は感謝からぞ。不足申せば不足うつるぞ。心のままとくどう申してあろうが。病気でないと思へ。弥栄と思へ。病治るモト生れるぞ。キがもとぞ。何事くるとも何クソと思へ。神の力 加はるぞ。おそれはおそれ生むぞと申してあろうが。
行く水にも雲にも咲く花にも神のみ心あるぞ。それ見る目ないからわからんのぢゃ。掃除すれば判る。掃除結構。拝むは拝まんよりはましであるぞ。しかし拝んでばかりでは病気は治らん。金はもうからん。拝むばかりで金もうけ出来たり病気治ったりすると思ふたら間違ひぞ。理にいそしめ。理ゆくところ喜びあるぞ。喜びあるから病気も治るのぢゃ。金も出てくるのぢゃ。おかげあるのぢゃ。喜び神ぢゃ。
何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。只ぼんやり神様と云っただけではならん。大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。根本の、太日月大神さまと念じ、その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ。信じ合ふものあれば、病気も又たのしく、貧苦も亦たのしいのであるぞ。
病むことは神から白紙の手紙を頂いたのぢゃと知らしてあろう。心して読めよ。ありがたき神からの手紙ぞ。おろそかならん。腹八分、二分は先づささげよ。運ひらけるぞ。病治るぞ。
この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ。
ひふみ神示
病気ほどつらいものはありませんが、そうなるにはなるだけの自分の行いが過去にあったか、理由があるはずです。
物質的見地から医者に行くのはそれはそれで良いことですが、霊的な見地からも病気に向かい合う必要があります。
この記事がどなたかの参考になれば幸いです。