豊原国久は神の道を教えすることの深い人であった。 

常に思うには「自分はこれほど謹んで神を敬い奉るけれどもただ古典に考えて今の恵み仰ぐばかりで目の当たりに不思議を見るのではないから人々を誘い勧めて共々に御神徳を仰ぐようなことは難しい。 どうかそのしるしを見せていただきたいものだ。」と一筋にお祈りし、朝夕神々にお誓いして7年の月日が経った。

 

然るに何のしるしらしいものもないので聊か困ってどうしたらそのしるしが見えるだろうとせめて夢にでも知らせて頂きたいと祈りを込めて臥せった。その夜、産土の神が枕上に立ってお告げになるには「汝は祈願の心専らであって、その誠実は神明に通じるけれどもただその祈るところの神が一筋でなく天地の神達を全てお頼み申しあげるから自ずと心が散乱して一心通徹し難いところがある。今から後はひたすらは御前(産土神)と日神(天照大御神)とに帰命して奉るがよい。必ず汝の願いの叶うことがあるだろう」と宣った。

 

国久は尊さが心髄に徹して、再拝して謝し奉ると思うて…夢が醒めた。
それから後は産土の神の御取へに従ひ、日神と産土の神とにひたすらに「本意を叶へて下さいませ」とお祈り申上げたが、その日から100日目に当たる日の朝早く見馴れない人が門に立っで
おとなひ、 「暫しこちらにお出でなさい」 と言う。

 

心得ぬ事に思ったが云ふがまゝに三間(約5.4m)ばかり随いて往くと、普段は見かけなかった所に出た。不思議に思って彼方此方を見廻すに、其の様子の美しい事は何に例へやうもないので、彼の誘った人に問ふと、「此処こそがお前が年頃見たいと思ってお願ひして居た神様のおいでになる界である」といふ。

 

さて其人をよく見ると、今まで見た顔は少しも面影がなく、其の尊いことは現界に比べるものがない。又た自分の心の内を省みて思ふと胸中朗らかであって何となく浮きたって楽しく覚えられ、
 「あゝ嬉しい」と、思はず声を立てて神界の尊さを仰いだ。

 

前の貴人の宜ふには、「我れは日神の御使いである。汝に此界の形状を仄かに知らして置くがよいと宣はせられたので、斯やうに誘はせられたのである。但し汝の神魂を放ってこゝに誘うたれば、久しく留め置く時は本体に帰りがたい。且つ此界は妄りに死んだ人の魂は来る事が出来ない。本分を尽くし天寿を全うした後ならではこゝに復帰しないのである。故に速かに顕界に返し百歳の後、再び伴うて来るであらう」 と仰って本の道に誘ひ給ふと思へば、彼人はいずくなりともなく見えぬやうになられ、自分は産土の神の社頭に佇んで居たのであった。

 

 

国久は何とも不思議の思ひがして、心に残り多いこと言ふばかりもなく、尊いことは心に沁みて、其後はますます日神と産土の神に祈誓して神道の旨を述べ、人を勧めるにも其事を語って教へ導いたといふことである。


 

口語神判記実

 

口語神判記実は伊勢神宮の元神官が神様からの賞罰を人間が受ける民話を集めたものです。内容としては善行を積んだ人間は生前から神の守りがあり、悪行を積んだ人間が人間界の法律から逃れている場合は罰せられる、あるいは生前の行いによって死後に天国や地獄に進むという話です。

 

実例としては参考になりますが、この辺りはシルバーバーチなどの霊的な書物で述べられている通りなので特別に目新しい話があるわけではありませんが、日本の民間の話として興味があれば是非読んで見て下さい。

 

Amazonでは高値で中古が出回っていますが、山雅書房から新品定価で購入することが出来ます。

 

 

ここでは熱心に祈っても特定の神様に対して願っているわけではないから上手く伝わらない旨を産土神様から注意されており、これは人間でも同じと思われます。例えば虫歯になったら道端で誰彼構わず歯の治療を頼んだりしないでちゃんと歯医者に行くのと同じで、無差別にお願いをするのではなくちゃんとそれぞれの専門分野の神様にお願いするべきということでしょう。

 

 

口語神判記実は伊勢神宮の元神官が書いているので本の傾向として伊勢神宮びいきなのはご当然ですが、やはりまずは産土神様ということでしょう。私もこれはというものは産土様にお願いします。些細なことであれば守護神様に聞きます。しかし出来るだけ自分で解決出来るように努力して「こんなことでいちいち神様に手間を取らせたくない」と思うようなことは聞かないようにしています。

 

 

 

ひふみ神示では産土神様の大切さを解いてはいますが、ここでは産土神様という名前は出てきませんが似たようなことを述べています。

 

 

何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。只ぼんやり神様と云っただけではならん。大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。根本の、太    (ヒツキ)大神さまと念じ、その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ。信じ合ふものあれば、病気も又たのしく、貧苦も亦たのしいのであるぞ。例外と申すのは、ないのであるぞ。他の世界、他の天体、他の小宇宙からの影響によって起る事象が例外と見えるのぢゃ。心大きく、目ひらけよ。

 

ひふみ神示 

 

 

人間にそれぞれ得意分野や専門分野があるように神様にも霊にもあります。地上である特定の仕事をしていた人間が霊界に進んでその仕事をより高度に極めていくという話はよく聞きますが、何事につけぼんやりと神様とか天津神国津神八百万の神ではなく具体的に〇〇の神とお願いすることが大切であると私個人の経験からも思います。

 

大切なことは実地に何か特定のことをしてくださるのはその分野の担当の神様や霊ではありますが、神界にて物事を受け付けてくださるのはその地域その地域の産土の神様です。小桜姫物語でもそのことは述べられています。

 

 

 

尚生死以外にも産土の神様の御世話に預かることは数限りもございませぬが、ただ産土の神様は言わば万事の切り盛りをなさる総受付のようなもので、実際の仕事には皆それぞれ専門の神様が控えて居られます。つまり病には 病気直しの神様、武藝には武藝専門の神様、その他世界中のありとあらゆる仕事は、それぞれ皆受け持ちの神様があるのでございます。

 

小桜姫物語

 

 

戦争には戦争の神、病気直しには病気直しの神、芸術には芸術の神と分かれていますが、専門分野の前にまずは産土神様にこれからは神に縋らざるを得ない状況が増えてくると思いますがちゃんと目当てを付けて祈ることが大切のようです。