神様かみさま人間にんげんかみせてつくたまうた。しかるに国祖こくそ御隠退ごいんたい以後いご世界せかいは、八頭やつがしら八尾やつを大蛇をろち金狐きんこ悪霊あくれい六面八臂ろくめんはつぴ邪鬼じやきのすさびにをかされて、だんだんと神様かみさまはなれて悪魔あくまちか人間にんげんになつて仕舞しまつた。人道じんだうすたれ、ひとめ、くにのためなどかんがふるものはなく、ひたすらに私利私欲しりしよくにのみふけなかになつて仕舞しまつた。このまますすんでいつたならば、世界せかい人類じんるゐ滅亡めつばうするよりほかい。これはどうしてもここに一大いちだい転換てんくわんて、全人類ぜんじんるゐまはみぎ断乎だんことしておこなはなければならないことになるのである。悪魔あくまはなれて神様かみさまむかはなければならないときる。かかる転換てんくわんあたつて、人類じんるゐなり重大ぢうだいなるくるしみなやみのうへたせらるること必然ひつぜんである。日常にちじやうかみしんかみしたが大本おほもと信者しんじやうへにもおななやみはきたるのである。大本おほもと信者しんじやのみがひとりこのくるしみをのがれて、特別とくべつ場面ばめんかるるやうなむしのいいかんがへをしてたものも往々わうわうにしてむかしはあつたが、さういふわけにはかぬ。ただしん信仰しんかうにあるものは、かかるさい神様かみさまにおすがりすること出来できつよみをもつてる。そしてつねをしへられつつあつたことによつて、さき如何いかになりくかの見当けんたうをつけること出来できる。このふたつの信念しんねんめ、ただ自己じこをのみしんずる無神無霊魂者むしんむれいこんしやより、はるか容易たやすくこの難関なんくわんりぬけること出来できるのである。

人間にんげんちからをのみたのみて生活せいくわつしつつある人々ひとびとが、人力じんりよくをもつて如何いかんともすること出来できない事実じじつ遭遇さうぐうするときそのなやみや名状めいじやうすべからざるものがあらう。 人間にんげんつくられたるものである。つくぬしたる神様かみさま御意志ごいしにしたがつて行動かうどうしてさへれば、間違まちがひないのである。きたらむとする大峠おほたうげさいし、信仰しんかう人々ひとびとをそぞろにどくおもふ。

 

玉鏡 出口王仁三郎

 

 

神は人間を神に似せて作ったのですが、九尾・邪気・白面に侵されて下々の神々は地上の守護神たる国祖国常立大神を引退させて、神ではなく徐々に悪魔に近付き、私利私欲のみにふけって神から人に成り下がり、このままでは世界が丸潰れになるというギリギリが今の世に思えます。


たしかに今の世は神よりも悪魔に似ている人間が増えていると言っても良いかもしれません。

 

自分さえ良ければ他人なんてどうなろうが構わないという国や個人の行き着く先は破滅です。そうなっては可哀想だから、一人でも多くの人間を改心させ救うために、いよいよ一大転換が起こるのですが、これは地上人全員が受けなければいけない試練です。

 

 

昨今の疫病や天変地異や経済危機などとは比べものにならないまさに人類全体が一度は全滅というところまでなりそうです。

 

 

ただその時に神を信じ、神を愛し、神と共にあり、普段から善行を積み、魂を磨く努力を行ってきた者は比較的軽めにその一大転換を乗り越えることが出来るはずです。

 

 

世界の経済状況、政治、社会情勢、あるいはコロナウイルスやこれから起こる新しい疫病、天変地異などを見て不安になったり、個人レベルでも困窮したり、病気や怪我に悩まされれば人間誰しも不安になるものです。

 

 

しかし神を信じ、神を愛し、神と共にある人にとってはそれがどういう理屈で起こるのか、霊的に見てどうなのか、そしてその後どういう風に落ち着くかの大要をおぼろげながらも知っているので、安心してそれらに対することが出来ます。

 

 

いざ自分に困ったことがあっても縋るべき神を持つ人と、縋るべきものがない人では大違いです。もちろん金や物や人力でなんとかなる範疇なら話は別ですが、そうではない天変地妖が起きれば神に縋るか、あるいは死ぬしかありません。

 

 

おそらく今後のさらなる社会的混乱に際して縋るべき物が何もない人たちの苦しみや悲しみは言語に絶するはずです。

神を見捨てているのは人間の方なのですが、出口王仁三郎のいうとおり私もそういう人たちを見ると自業自得とはいえ気の毒に思います。

また助かるべき神の道があるのにそれを自ら捨てる人も同じく気の毒です。

 

 

霊的なことに理解を持っている人間は例え何があろうとも神に守られているという安心感や大慈大悲にして愛に坐す神が未来をどうなさるのかを知っているので全く安心して過ごせることでしょう。

 

 

極限まで行けば多くの人間も普段は神などいない、霊など存在しないと嘯いていてもやっぱり最後は「神様助けて下さい」となると思われますが、いざ大峠の真っ最中になって「さぁ今!」という状態になってから、我が身可愛さに改心しても駄目だと多くの霊的書物に書かれています。

 

 

例えばキリスト教ではイエスを信じれば、仏教では南無阿弥陀仏と唱えれば、それだけ救われると説きますが、一生涯悪業の限りを尽くし、死ぬ数秒前にイエスを信じ、南無阿弥陀仏と唱えただけで、生涯善行を尽くし無私の人生を生きてきた人と同列に扱われるならそこに神の公正はありません。シルバーバーチも同様の趣旨のことを述べています。

 

 

やったもん勝ちで真面目な人間が損をするというのは人間の幻想であり、いざというときに物を言うのは日頃の行いです。ひふみ神示に「いざと云ふ時は日頃の真心もの云ふぞ。付け焼刃は付け焼刃。神拝むとは、頭ばかり下げることでないぞ。内の生活することぞ。」とありますが、日頃から魂を磨いておかないといざというときに役に立たないのかもしれません。

 

 

聖書にも神は自分に似せて人間を作った云々という記述がありますが、暫時悪魔が世にはびこり、また人間も私利私欲と保身のみに耽って、もはや人間は神に似せて作られたというよりはむしろ悪魔や動物に近い人間がたくさんいます。

 

 

しかしそれでもひふみ神示にあるとおり人間は元は神のキを頂いていている神の子。

今は泥を被っているけれどぶって、叩いて、熱して、冷まして、生まれ変わり、死に変わり鍛えに鍛えて掃除洗濯すればちゃんと元の人間に戻るはずです。