この山の主は巨大な熊であるといふことを、常に古老から聞かされてをつた。そして夜中に人を見つけたが最後、その巨熊が八裂きにして、松の枝に懸けてゆくといふことを聞いてゐた。自分は今夜こそこの巨熊に引裂かれて死ぬのかも知れないと、その瞬間に心臓の血を躍らした。
ままよ何事も惟神に一任するに如かず……と、心を臍下丹田に落着けた。サアさうなると恐ろしいと思つた巨熊の姿が大変な力となり、その呻声が恋しく懐しくなつた。世界一切の生物に、仁慈の神の生魂が宿りたまふといふことが、適切に感じられたのである。
かかる猛獣でさへも寂しいときには力になるものを、況んや万物の霊長たる人においてをやだ。アゝ世界の人々を悪んだり、怒らしたり、侮つたり、苦しめたり、人を何とも思はず、日々を暮してきた自分は、何とした勿体ない罰当りであつたのか、たとへ仇敵悪人といへども、皆神様の霊が宿つてゐる。人は神である。否人ばかりではない、一切の動物も植物も、皆われわれのためには、必要な力であり、頼みの杖であり、神の断片である。
人はどうしても一人で世に立つことはできぬものだ。四恩といふことを忘れては人の道が立たぬ。人は持ちつ持たれつ相互に助け合うてゆくべきものである。人と名がつけば、たとへ其の心は鬼でも蛇でもかまはぬ。大切にしなくてはならぬ。それに人はすこしの感情や、利害の打算上から、たがひに憎み嫉み争ふとは、何たる矛盾であらう、不真面目であらう。人間は神様である。人間をおいて力になつてくれる神様がどこにあるであらうか。
神界には神様が第一の力であり、便りであるが、現界では人間こそ、吾等を助くる誠の生きたる尊い神様であると、かう心の底から考へてくると、人間が尊く有難くなつて、粗末に取扱ふことは、天地の神明にたいし奉り、恐れありといふことを強く悟了したのである。
これが自分の万有に対する、慈悲心の発芽であつて、有難き大神業に奉仕するの基礎的実習であつた。アゝ惟神霊幸倍坐世。
霊界物語 現界の苦行
前回の記事で他人に対する慈悲心について述べました。
これは出口王仁三郎が修行の初期に高熊山で巨大な熊と出会い死を覚悟した時のお話ですが、誰しも形は違えどもこういう経験を通して慈悲心というものを養っていくのかもしれません。
私にも覚えがありますし、万人のみならず植物や鉱物でさえも究極神の創造物である以上は慈悲心を持って接してやらねばなりません。
イエスも汝の敵を愛せと言っていますが、残忍に寛容になれとか、悪事を見逃せと言っているわけではなく、彼らの自由意志を尊重しつつも正しい方向に導いてやらねばならないということです。
人間はちょっとのことで争ったり、憎んだり、恨んだり、妬んだり、侮ったりしますが、同じ親神の子同士でそんなことをしていては、死後親神に合わす顔がありません。
現時点では自分の方が上か、あるいは下か、というのはすべて一時的なことでしかなく、霊的に見れば地上の人生など一瞬にも等しいわけですから、再生時や霊界で再び相まみえるときに立場が逆になっていることも当然あり得ます。
物質的な視野のみにおいて、人間の目から見てどうしようもないようなことがたくさんあるのは認めますが、万物が創造神の手に因るものである以上は、創造神の創作物に対して愛を持って接さなければなりません。要するに愛の感情の発現ですが、これが未熟なうちは霊的に高いレベルに到達出来ないような気がします。
ひふみ神示や出口王仁三郎の予言がどうこうとか、どうすれば生き残れるかとか、そういう外部的・物質的な現れを騒ぐ気持ちはわかりますが、それは些末なことであり、地上人生の最大の目的は自分に欠けている霊性を磨くことであるはずです。
前回の記事の「あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つ指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります。」というシルバーバーチの言葉はこれが出来ていない人は愛の感情が未熟であり、霊的に学ぶ余地がまだまだあるということ意味しています。
霊界では同じ進歩段階や同じ性質の人間が集まるので、進歩しにくいというは多くの霊的書物で述べられていることですが、地上は本当にありとあらゆる種類と段階の人間が雑多に存在します。
自分と全く異なる人間と接することで喜んだり、怒ったり、悲しんだり出来るところが地上生活の醍醐味ですが、自分とは異なるタイプの人間や自分よりも低い段階、すなわち悪に対する慈悲心や寛容さは実際に地上に生まれ悪に接することでしか得られないのかもしれません。
私もこういったことを死後霊界で学べないのか?と思うのですが、地上に生まれてきた方が圧倒的に効率が良いということが多くの霊的な書物に書かれており、実際に大量の霊が再び肉体に宿って地上に再生してくるところを見るとその人から見て悪と思えることに対してどう接するのか?それに慈悲心を持てるのか?は肉体を持って地上に生まれてくるのが一番良い勉強の機会ということのようです。
出口王仁三郎も若い頃はさんざんヤンチャしていたわけで、色々な悲惨な経験を通して慈悲心や寛容さというものが目覚めていきます。
これはある意味で神と同じ心で人間に接するということであり、その分だけ神に近付くということですが、多くの人にとって並大抵のことではなく本当に一回死ぬというところまで行かないと目覚めない人がたくさんいます。
出口王仁三郎もこのように本当に正真正銘死ぬというところまで追い詰められて初めてこのような心を持つようになったわけで、私も実際に死ぬというところまで追い込まれてやっとこういう風に考えるようになりました。
再生してくる人間の多さを見る限りは死ぬというところまで追い込まれて、そして実際に死んでも慈悲心や寛容さの心を持たない人間がたくさんいるのも事実です。
馬鹿は死ななきゃ直らないと言いますが、実際のところは馬鹿が死んでも直らない人も多くいるということでしょう。
愛の感情を持つという言葉にすれば簡単な、しかし実際には何度も再生を繰り返さないと身に付かない霊的な宝を求めて、多くの霊がそれを求めて何度も肉体を持って地上生活にリトライしています。
これは何度でも、どれだけでも痛い目を見て自身の体験として学んでいくしかないように思えます。
こういった心の有り様は金では買えない、おそらくは死後の世界に持っていける財産であり、地上生活で身に付けるべき教訓の1つのように思えます。