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今回のポイント

 

・救済のためでも狂乱の中にある無縁霊関わるにはこちらにもリスクがある。

・地上人は地上人と語るべき、霊界人と語るのは危ない。

・悪い霊と関わって悪い影響を受けるということは、逆に言えば良い霊と関われば良い影響を受ける。最も良いのは最高神である。

・山岳救助や海難救助や医療行為と同様に助ける側にも能力や資格が求められる。

・シルバーバーチがよく言う動機が善であればOKというのは単なる前提であって、それだけでは上手くいかないことがある。人間の行為に対して霊界側では悪く取られないという意味でシルバーバーチはそのように言っているはず。

 

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「謹みて三界之有縁無縁万霊を供養し申す。乞願くば我が供養の霊化の食物を甘らかに受け入れ給へ。」と祈念して、此の小皿を食卓の上に任意に置きて、次に天地の神祇の大前に任意に感謝の祈念を捧げて後に食事をするのである。

 

紫龍仙道人

 

 

紫龍仙道人の著書には無縁霊(死後誰にも祀ってもらえず、生前に善行を積むこともなかったため地獄的境涯にいる霊)のために、毎日の食事において自分の食べる音を少し小皿に取り分け神前にお供えし、その分を無縁霊たちに捧げて、最後に取り分けた小皿分もお下がりとして自分でも食べるという供養方法が紹介されています。

 

 

なるほど、これはある種の慈善であり一見素晴らしいことのように思えます。

私は日本の仙人系である宮地水位仙や紫龍仙道人のことは彼らが残した僅かな著書でしか知らない上に、いわゆる仙人、山人、天狗系統とは個人的に関わりがないためこういったことに関しては正直なんともいえない部分があります。

 

 

しかし一般的に考えれば苦しんでいる相手に対する人助けという点においては誰もが賛同できる部分でしょう。

 

 

私もある程度の期間このことを実践してみたのですが、いくつかわかったことがありますので、どなたかのお役に立てればという考えのもとに気づいたことを書いてみます。

 

 

まず霊的な書物の中で物質的な肉体を持った地上人に霊界の無縁霊の救済を要求している書物は私の知りうる限りは日本の紫龍仙道人などの仙人系のみです。

 

 

 

ひふみ神示には地上人に対して霊界人の救済を求めている箇所はなく、シルバーバーチやホワイトイーグルなどにもありません。基本的には地上人が地上人同士で助け合うことを説いてはいても、霊界の無縁霊の救済まで地上人には求めてはいません。

 

 

私の見落としがあるかもしれませんか、少なくとも紫龍仙道人のようにあからさまに求めている部分はなかったように思います。

 

 

実際に私が三界の無縁霊に対してやってみて思ったことは、地獄的境界にいる霊に対して食べ物や飲み物などの供物を献じたり、祈りを捧げると彼らと霊線が繋がってしまい、肉体的にあるいは精神的に様々な悪影響があるということです。


具体的には体の無縁霊と対応する部分が痛くなる、だるくなる、疲れやすくなる、精神的に塞ぎ込む、落ち込む、苦しむなどです。これは肉体的、精神的な病気に繋がっていきます。



実際宮地水位仙も人生の最後の5年間は病気で寝たきりになったと言われていますが、これは無数の無縁霊たちの「助けてくれ~」という救済の念が肉体に作用して病気になったとも言われていますし、紫龍仙道人も全く同じ理由で晩年は病気で体がボロボロだったと言われています。

(この辺りはソースが明確ではなくネットや本の情報です。会って確かめたわけではありません。)

 

宮地水位仙や紫龍仙道人は高度に進歩した霊だったはずなのに、病に倒れ、苦しんで死ぬのはこのせいだったのではないかと思われます。

 

 

無縁霊という言葉から連想する存在は人それぞれだと思いますが、祀ってくれる子孫や誰かがいなかったとしても生前善行を積んだ人間は地獄的境界に落ち込んだりはしません。


そのような人は地上に未練がないため死後さっさと地上の物質的な状態を脱出し、もっと進歩した天体やより物質性が希薄な高次の天国的境界へスムーズに進んでいくことすらあり得ると霊的な書物では述べられています。


地上物質世界(地球)に未練がないということは言ってみれば地縛霊的な素養が全くないということで、物質性から抜け出すにはむしろメリットですらあるわけです。


地上的な欲望、お金、権力、異性、怨恨などから解き放たれているということは死後において霊的に進歩向上していく上では確かにメリットという風に捉えることもできます。


逆に同じ無縁霊でありながらも生前全く善行を積まず悪行の限りを尽くしてきた人間は死後において地上的あるいは地獄的境涯に囚われることとなり、結果として苦しみの期間も長いものとなります。


一口に無縁霊といってもそこまで生前の悪行が非道いものでなかったため簡単に救いの手を差し伸べることの出来る存在もいれば、霊界側でも救済策の手も及ばない特に質の悪い強烈な無縁霊も存在します。


地上的に例えるならば生前はヤクザ、チンピラ、詐欺師、殺人鬼、強姦魔など悪行の限りを尽くし、社会貢献など夢にも思わず殺人などの悪事に喜びを覚え、自分さえよければ他人などどうなっても構わない、自分の楽しみのためなら幾らでも他人を犠牲にできる種類の人間です。
 

 

この手の人種にごく普通の一般人が積極的に関わることは日常生活で考えてもあまり宜しくないということは常識的に考えてわかるはずです。



人助けが好きな善人でもまさかヤクザの事務所や半グレの根城に単身ろくに準備もせずに乗り込んで改心を促すような人はいないでしょう。

 

 

人間の刑務所でも手を焼き、余りの異常性にもはや社会がその存在を許さず終身刑や死刑になるような精神構造の犯罪者とは一般人同士のような会話はあまり成り立ちません。
 

 

自分が健康で元気で都合が良い間は積極的に悪事を働きますが、死後無縁霊として霊界で苦しむようになった時は、その助けを求めるさまもやはり尋常ではありません。

 

 

このような無縁霊すらにも毎日お供えをし救済しようという紫龍仙道人の考えは立派であると言えますが、万人に求めるようなことではないようにも思えます。
 

 

勿論全員が全員凶悪なわけではなく、比較的罪の軽い霊も存在しますが、例え無縁霊であってもそのような物わかりの良い霊、そこまで凶悪ではない霊は霊界側の救済網によって救われるでしょうし、自らの善行の努力によって徐々に悪い状況から抜け出すこともあります。しかし善行をある程度まで生前に積んでいればそもそも無縁霊になるケースはほとんどないと思われます。なぜなら霊界においては生前の自分の悪業も善行も正しく裁かれるからです。

 

 

無縁霊に供えて、彼らが触れ、彼らの霊気(当然かなり悪い境涯のものが多数ある)の入ったものをお下がりとして自分でも食べるということを紫龍仙道人は推奨していますが、そうすることで無縁霊との繋がりも強固になっていきます。残念なことに無縁霊は基本的には宜しくない霊が多く、宜しくないからこそ無縁霊になってしまうとも言えます。

 

 

 

私個人の感想としてはちょっとやっただけ結構キツイのに、これを数十年も続ければ必ず病気になる自信があります。

こういった影響に対してどれだけ耐えられるかは、その人の霊と肉体の進歩状況や強さや体質などによってかなり個人差があるようですが、実際に宮地水位仙や紫龍仙道人は晩年病気になって苦しみながら死んでいます。

 

 

 

しかし霊界人同士でなら話は別で、ベールの彼方の生活では進歩した高級霊たちが低級霊たちの境界に赴いて人助けをする話が出てきますし、霊界人同士での互助ならたくさんの例が霊的な書物に登場します。

地上人が地上人同士で助け合うように、霊界人が霊界人同士で助け合うのは界を跨いだ交流よりもずっと自然であるはずです。

 

 

顕幽を跨いだ交流というのはしかるべき高級霊の支配の元で、万全の準備に基づいて行うことであって、シルバーバーチやひふみ神示などでも無闇矢鱈に霊的交流を求めることを戒めています。

 

 

ひふみ神示には「霊人と語るのは危ないぞ。気付けてくれよ、人は人と語れよ」とありますが、無縁霊への供献は別に霊と語っているわけではないものの、交流を持つわけですから向こうからは助けてくれる人には縋り付いてきます。

 

 

特に悲惨な境涯にいる無縁霊ほど無差別で、それは丁度溺れている人間が藁を掴むような感じです。

 

 

実際やってみれば分かりますが、溺れている人間を抱えて泳ぐのはとても大変です。ましてや混乱して暴れるともなればプロのレスキュー隊員でも難しく、ヘタをすれば助けようとしたこちらまで溺れてしまう可能性すらあります。

 

 

これと似たようなことが私のような一般人と地獄的境界で苦しむ無縁霊での間で起こり、こちらとしては親切心で助けようとするのですが、無縁霊の方では無我夢中で、ただ楽になりたい一心で無茶苦茶に縋り付いてきますので、生死の懸かった状態で溺れている人に「一旦落ち着いてください」と言っても通用しないのと同じで 、助けようとしたこちらも苦しむことになります。

 


レスキュー隊の動画

 


今回の一件で助ける側にも助けるだけの能力や資格が必要であるということを学びました。溺れた人間を助けるには相当自分が泳ぎが達者でなければ不可能です。普段からそういう訓練を積み、準備を行って、さらにたくさんの実践経験を積んだ上で初めて可能になることであるはずです。


プロのレスキュー隊員と同等の仕事を全く専門的な訓練を積んでいない素人が出来るはずもありません。

海難救助でも山岳救助でも医療行為でも火災救助でも高度な救助というのは専門的な技術や知識や能力が必要で、さらにそれらを行うだけの高い精神性も必要です。実際霊的な書物にあるような高級霊による低級霊の救済も、地獄側の影響に取り込まれないように進歩した霊、あるいは訓練を積んだ霊にしてはじめて行うことのできる難しい任務であって誰でも彼でも出来るようなことではないという趣旨のことがベールの彼方の生活にも書かれています。

 

これは地上のレスキュー隊と同じでしょう。燃え盛る炎の中、激流の中、落ちれば確実に死ぬ高所などの過酷な状況で自分の身を守り、さらに人助けをするのは人間社会であってもかなり高度な訓練を受けていないと難しく、実際特別高度救助隊のような高度な救助能力と機材を持っている人はごく僅かです。

 

善意があっても素人が人助けのためにレスキュー隊の真似事をすれば、自分も死んでしまう可能性は高いですし、半端で未熟な霊が地獄的境涯に赴けば逆に悪の側に取り込まれてしまうからです。

 

 

いくら人助けと言っても無縁霊に対して無差別に地上人が関われば、かなりの高確率で肉体や精神を病んだりするのではないかと思います。

 

 

以下の文はネットの書き込みですが、なかなか正鵠を得た意見がありましたので、転載致します。



とにかく広く三界の御魂を慰めるべきとした紫龍仙道人とはその辺りの考えが違っていました。
安鎮秘詞は直接は霊格向上の秘詞ですが、祖先の御魂と自己の御魂は他者が全く交わらぬ密接な関係があり
祖先の御魂の向上が結局は自己の御魂の向上に繋がり、ひいては玄胎結成にも益する者であったとされます。

対して他者の御魂を慰める事は確かに善行であるには違いないものの、同時に他者の御魂の抱える善悪の縁とも繋がりができ、
この他者との縁が修法する道士にとっては一般生活や修道上の妨げの原因になりやすく、その障害を解消する暇を思えば善行とはいえ考え無しに推奨すべきで無いという考えだった事情もあります。

 

 

無縁霊を助け、慰めること自体は悪いことではありません。しかし自分が泳げもしないのに、人助け、善行だからと言って考え無しに溺れている人を助けるために海に飛び込み、また遭難者が出たからと言って登山の素人が準備もなしに険しいに冬山に入るのは二次災害、二次遭難の危険があります。

 

 

多分無縁霊と積極的に関わり、彼らに供物を献じ祈りを捧げることを自分だけは安全で無事な状況から、軽く手を出すだけでノーリスクだとに考えている人は多いのではないかと思います。

 

 

危険が及ばない安全ゾーンから多少の供物と祈りをささげても自分には何の危険もない、確かに人間の物質的感覚に即座に感応するようなことはないのでしょうが、実際にはレスキュー隊みたいに自らも危険に身をさらさなければなりません。

 

 

 

思うにひふみ神示やシルバーバーチなどのほとんどの書物で霊界の無縁霊の救済を地上人にまで求めていないのはそれが危険を伴う行為だからなのではないかと思います。

霊界のことは霊界人の仕事ということなのかもしれません。

地上人は霊界を救済する前に、地上での貧困や争いや何より嘆かわしいほどの霊的なことに関する無知を一掃する必要があります。見えている自分たちの世界ことも出来ていないのに、見えない世界の救済までは気が早いということなのかもしれません。

 

 

(私の知る限り)紫龍仙道人の著書だけがこういった危険性については全く述べずに、地上人が無縁霊を助けることについてを述べています。

 

 

もちろん私として善行を否定しているわけではありません。善行のチャンスがあれば積極的に積むべきです。

 

 

これはフランスの不法移民がマンションのベランダから落ちそうになっている子供を助ける動画ですが、こういうのは助ける側にもリスクがあります。一歩間違えば自分も死んでしまうわけで、善行でも内容によっては能力、資格、機材などが必要です。


しかし時と場合と状況によっては必ずしも考えなしに行動することが動機が善であっても良いとは限らないというケースがあるということです。

レスキュー隊や海難事故や登山における遭難事故が地上における一例ですが、悪意に満ちた邪霊や狂乱の中にある霊と関わるにはそれだけのリスクがあり、それを飲み込んだ上でやらなければいけないということです。


もしやってみたいと思うなら、刑務所や拘置所にいる特に凶悪な犯罪者に対して人の道や霊的真理を説き、彼らを救済しようというところからはじめてみると良いかもしれません。


これは一般人には相当キツいですし、彼らの相手を日常的にする刑務官などの職業についている方はそれなりの対応の方法を教育されているはずです。

少なくともノーリスクではありません。


しかし宮地水位仙や紫龍仙道人は一般人ではありませんからごく普通の私のような人間と同等に考えることは出来ません。

 

彼らは謫仙と言って霊界で罪を犯したがゆえに地上に生まれてきた人だそうですので、地上側から無縁霊を助けることが罪の償いの一部であった、その結果として病気になることも含まれていたという可能性も考えられます。

 

 

一般人としては相当やり方を考えるか、地上人が直接無縁霊と関わりを持つよりも、霊界の高級霊たちに彼らの救済を願う方が賢いのかもしれません。

 

 

それは地上において遭難者が出た時に登山の素人である自分が厳しい冬山に入って二次遭難をするよりも遭難救助のプロの人たちを様々な形でバックアップする方が賢いやり方と似ています。また単純に無縁霊たちを助けたいなら、彼らと全く霊線が繋がらない方法を考える必要があります。

 

 

人間というのはみな生まれて来る上で課題を持って生まれてくるわけですから、まずもって天命を第一に考え地上人は地上人として地上世界を良くすることを第一に考えるべきとも思います。

 

 

霊界にまで援助の手を伸ばすことは立派なことであり、素晴らしいことでもありますが、なかなか素人には難しく、 宮地水位仙や紫龍仙道人といった霊的に進歩した人達でも病に冒され苦しんで死んでいくわけですから、素人がやるにはかなりリスクが高いです。私はかなり危険であると判断しました。ひふみ神示や出口王仁三郎やシルバーバーチなどの文献にこういったことが出て来ないのもこれが理由かと推測します。
 

 

逆に今回のことでとても教訓になったことは、無縁霊と関わりを持つことで彼らの悪い影響をこんなにもはっきりと受けるということは、反対に善神善霊や高位の神を常に祀り、日頃から関わりを持てば良い影響を受けることが可能ということです。


出口王仁三郎が下記のように述べています。
 

 

 

現界げんかいおいて、吾人ごじん日夜にちや活動くわつどうするにあたりても、その霊魂れいこん神界しんかいまた幽界いうかい往来わうらいしつつあるものなり。ゆゑ吾人ごじん造次ざうじにも顛沛てんぱいにもかみしんかみうやまひ、神界しんかい連絡れんらくたも信仰しんかうはげまざるべからずなり。

 

霊界物語 第6巻 松葉の塵

 

 

 

この手の事は色々なところで述べられていますが、確かに文章として読めば「なるほど、そうだな」とは思うものの、今回のような経験をするまではこの重要さがわかりませんでした。
所謂わかったつもりというやつです。



思うに私を指導してくださっている霊はこういったことを伝えたくて今回のような経験を私に与えてくれたのかもしれません。



日夜、神を信じ神を敬い神界と連絡を保てば、常に神の守護があり神の良い影響を受けることが出来るわけですから、人間としては大いにそのようにしなければなりません。その対象として最も良いのは最高神です。

 

 

悪意に満ちた邪神邪霊は言うまでも無く、狂乱の中にあり、ただ自分が助かりたいだけの分別を失ってしまった無縁霊と関わるよりは、正神の守護を受けた方が絶対賢いです。

 

 

 

目に見へぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでゐるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤(もっと)もらしく人民の目にうつるものであるぞ、

 

ひふみ神示

 

 

 

低級霊や邪霊の影響は物質的境涯に近いですからすぐに地上人にもわかりやすいですが、高度な感応は物質的な要素が希薄なので人間にはほとんどわかりません。私などには全くわからないほどです。

しかし低級霊や邪霊の活動は今回のことのように波動が物質的な要素を含み、地上的境涯に近いため、地上人の五感に感応しやすいです。

 

 

 

ベールの彼方の生活にあるように無縁霊は無縁霊で助けてやらねばなりませんが、それは相当修行を積んだ地上人であるか、地獄側に取り込まれないレベルまで高度に進歩した霊界人の仕事なのかもしれません。

 

 

それでなくても地上には地上で解決しなければ問題が山ほどあります。これを差し置いて、霊界の無縁霊の救済はたしかに立派ではありますが、先にやるべきことがあるだろうとも思いますし、無縁霊と言えども元は地上人なわけですから、これ以上地獄的境涯で苦しむ無縁霊を地上側で作り出さないように霊的な理解を地上に広げていく方が霊界側としても助かるのではないかと思います。

 

 

地上での問題をないがしろにするのは良くないとしても、霊界人を助けようとする心そのものは大切ですが、地上人は目に映らない霊界人の救済を行うよりも、同じ地上で困っている人や苦しんでいる人を助けたり、あらゆる社会問題を解決し、より良い社会を実現するために努力を行い、これ以上無縁霊を生み出さないとまでは行かなくても、少しでも減るように、また無縁霊になってしまってもそこから立ち直りやすいように地上での霊的な知識の普及に努力することの方が個人的には良いのではないかと思います。

 

 

そう考えるとシルバーバーチはまさに霊的な知識の普及に努めていますし、ひふみ神示もそうであると言えます。そもそも死後の世界の実情や地上生活の如何によって霊界のでの立ち位置が決まることを理解していたら、その人は無縁霊になるような生き方はしないはずです。

 

 

 

ただ無縁霊を祀ったり、助けようとする紫龍仙道人や同様の考えを持つ方たちを否定するつもりはありません。内容はどうであれ善行が尊ばれるのは当然であり、その人にはその人なりの事情や考え方があったはずです。それが万人には当て嵌まらないというだけの話です。

 

 

私が言いたいのはろくに泳げもしないし、登山の経験や道具もないのに善意だけで人助けのために考えなしで危険に飛び込んであっさり二次災害や二次遭難に合うのでは、むしろ自分も苦しく人にも迷惑にしかならないということです。

 

 

物事を成し遂げるにはそれだけの資格や力が必要であり、シルバーバーチはよく善意があればすべてOKみたいなことを言っていますが、それはあくまで心構えとしての最低限の前提条件であり、実際にはそれだけでは足りないケースが多々あるということです。

 

 

シルバーバーチも今回のようなケースは想定して言っていないでしょうし、二次災害や二次遭難になってかえって被害を増やすくらいなら動機が善であっても良くないと言うはずです。その辺は常識で考えるべきです。

 

 

あくまで霊界側から見れば行った行為に対して動機が善でありさえすれば悪く取られないという意味でシルバーバーチは言っているはずで、二次災害や二次遭難を推奨しているはずはありません。

 

 

私が今回の記事を書いたのは実際に宮地水位仙や紫龍仙道人の本を読んで無縁霊への供養を実践した人が肉体的または精神的な病気などになって苦しんだ時にその原因が無縁霊たちとの積極的な関わりにあるということに気づかない人がいるかもしれないからです。

 

 

もしその原因が(凶悪なのも中にはいる)無縁霊との関わりを持ったことによる霊障なら、関わりを立つことが出来れば病気も治るはずです。