出口王仁三郎が五六七を「ミロク」と読んだので、現在でも五六七はミロクと読まれることが多いですが、私個人としてはこれについてちょっと疑問だったりします。

 

 

以前の記事にも登場しましたが、なぜ出口王仁三郎が五六七はミロクと読んだのかは第二次大本事件の裁判所資料記録に残っています。

 

 

(中略)併し、宗教的にやるのですから、それで日本の神さんばかりと云ふ訳にいかぬ。支那の神さんの名をも取り、印度の仏の名も使用したり、或は能く判るやうにキリストの名も使つたりして居りますが、如何にも是はキリストの言ふ、ゴッドと云ふのは、此の神さんだ、此の神さんであるとか云ふやうに、宗教宗教に判るやうな宗教名を付けたのです。 それで、ミロクさんと云ふことは、実は私は日本の皇典講究所を出て居るので、仏の名は聴きたくない、弥勒なんか云ひたくない。 併しながら、さう云はなければ、宗教らしくならぬ、それで宗教らしくなければ、信仰も流行らないと云ふので……。

地裁公判速記録(5)

 

 

五六七はどう読んでもミロクとは読めないのですが、出口王仁三郎は宗教家であり、五六七をミロクと読ませた根拠は宗教っぽくしたかったらという理由だそうです。

 

支那の神さんの名をも取り、印度の仏の名も使用したり、或は能く判るやうにキリストの名も使つたりして居りますが…、というのは日本ではそれが宗教っぽく世に広めるためには明治・大正の世において適切だったと思いますし、今でも日本国内に限定して良いなら変わらないかもしれません。

 

 

 

 

 

世界の宗教分布としては仏教は僅か5%に過ぎず、日本では仏教が普及しているというだけであって、地球全体としてはマイナーな宗教になります。出口王仁三郎が全く広報・宣伝に使わなかったであろうイスラム教やヒンドゥー教の方が地球全体ではよっぽどメジャーな存在です。

 

 

仏教のミロクという名称は割と普及しているので、ミロクという名前を使えば仏教系の信者も取り込みやかったでしょうし、メジャーな名前なのでそうでない人にも効果はあったと思います。

 

 

宗教臭くやるには仏教の名前を出すのは日本ではかなり効果的でしょうし、実際に日本に限定していいなら、新興宗教の多くが仏名を教義の何処かに使っています。

 

 

仏魔や神を否定する仏教が霊界ではどんな状況であるかを知っていたであろう彼が、「仏の名は聴きたくない、弥勒なんか云ひたくない」と言いつつも、それでも仏名を使ったのは「併しながら、さう云はなければ、宗教らしくならぬ、それで宗教らしくなければ、信仰も流行らない」という判断から手っ取り早く宗教を広めるにはマイナスもあるけれど、宣伝材料としては有用という考えに基づいているように思えます。

 

 

日月神示も元々大本にいた岡本天明が自動書記で書いたものなので、五六七をミロクと読む流れを大本から受け継いでいます。

 

 

今は日月神示に関する書籍やネットのサイトなどもたくさんあって、五六七をミロクと読んでいることが多いですが、大本系の書物やその流れを汲む日月神示でそう読んでいるのでそれがそのまま広く普及しています。

 

 

仏が霊界においてどんな風になっているのか?は実際に関心がある方がご自身で見るべきだと思いますが、神界の高い境涯で神を否定する仏の名前を使ってミロクと読んでいるとはとても思えません。

 

 

(中略)同大神(天之御中主神)の御精霊体の完備せるを天照皇大神、撞の大神と称ヘ天照皇大神、伊邪那岐尊、伊邪那美尊は三神即一神にして之を撞の大神、みろくの大神、天の御三体の大神又は天の御先祖と称ふ撞の大神は国常立尊を大地球の先祖として大地の修理固成を命じ給ひたるを以て…

第二次事件関係 第2章 裁判所資料 第1節 予審終結決定

 

 

ミロク様とはマコトのアマテラススメラ太神様のことでござるぞ。

六月十七日、ひつくの神。

ひふみ神示光の巻 第五帖

 

天照皇大神=撞の大神=ミロク大神というのは大本の神諭やひふみ神示によく出てくるのですが、現代人の私からすると普通に天照皇大神や五六七大神では駄目のか?と思ってしまいます。

 

 

もちろん仏教好きな人もいれば、インド人好きな人もおり、出口王仁三郎のように宗教染みたやり方を好んでいる人もいるので、五六七をミロクと仏教風に読んでも良いと思います。それは自由であるべきです。

 

 

天照皇大神様に悪意を持って侮蔑の意味で五六七をミロクと仏の名前を使うのではなく、ただ本で読んだから、ネットで見たからという理由だけで自分では敬意を払っているつもりでそう呼ぶなら神様も取り立ててお怒りになるということはないはずです。

 

 

ミロクという名称は元々はインド人たちの言葉です。インドではマイトレーヤーと呼び、モンゴルではアイダリプロハラと呼び、シナ中国では弥勒と呼び、日本ではマイトレーヤーやミロクという名称が一般的です。ヨーロッパやアメリカではほとんど普及していないので、何か別の呼び方があるのかもしれませんが、西洋ではキリスト教やイスラム教の方がずっと優勢です。

 

 

私個人としては宗教として、あるいは宗教じみたやり方に拘らないので出口王仁三郎が推奨したように五六七をミロクと読む必要はないように思えてしまいます。当時としては宗教団体として大本を流行させる必要があったはずですが、今はもう時代が変わったように思います。

 

 

日月神示は日月神示を経典とし、岡本天明を教祖として今までのような宗教団体(日月教とか天の日月教みたいなもの)を作ることを禁じている文章がありますが、明治・大正・昭和ならともかく今はもう宗教団体に入らなければ神を信仰できないということはなく、個人個人が自分の考えに基づいて神を信じ、そしてそれを宗教という旧来の枠組みの中ではなしに、社会全体を、また日常生活をより良くするために役立てていく時代になっているように感じます。いわゆるスピリチュアリズムなどはそんな感じです

 

 

日月教がないようにシルバーバーチ教やホワイトイーグル教はありませんし、もしあれば最初は良くても既成宗教のように徐々に腐敗したでしょうし、また宗教団体の腐敗・堕落に懐疑心を持つ知性ある現代の人々にとっては、ただ宗教というだけで日月神示やシルバーバーチは倦厭されたかもしれません。

 

 

もし日月神示やシルバーバーチが特定の宗教団体から出されたものであったなら、今とは全然違った未来になっていたはずです。中身を見る前に成金の教祖が信者から金を集めて、奇妙な建物を作り、神からの啓示云々と言っても相当胡散臭いというかいかがわしく感じてしまいます。

少なくとも現代日本ではそういった風潮はありますし、もはや既成宗教はその役目を終えてしまっている、あるいは今後の人類の霊性開花にあまり役に立たない存在になっているように感じます(むしろキリスト教はシルバーバーチらを妨害すらしているほどです)。

 

 

出口王仁三郎の文献には既成宗教の堕落を嘆くようなものがそれなりに残っていますが、昨今はスピリチュアリズムという枠組みで、宗教団体には入っていないけれど神や霊界についての理解を持とうという流れも僅かではありますが、生まれてきました。

むしろキリスト教、仏教などの既成宗教やその他の新興宗教に対してある種の不信感や恐怖感を持つ人もたくさんいます。

 

 

ただ彼が生きた明治・大正・昭和初期の時代に日本という地球の局所的地域で宗教として広めて信者をなるべく多く獲得しようと思うなら、間違いなく仏名の流用は有益な方法であったわけですし、やっぱり当時は信仰=宗教団体に加入しかない時代だったと思うので出口王仁三郎の選択が間違っていたとは思えません。神界からそう指示を受けていた可能性もあります。

 

 

日月神示やシルバーバーチなどを読んでスピリチュアリズムとして神や霊界について理解しようとしたり、神を信じているのにどこの宗教団体にも属していない人は明治・大正・昭和にはほとんどいなかったのではないでしょうか。神=宗教団体、宗教団体=神であったはずです。今は少しずつ崩れてきています。

 

 

ミロクという名称は地球上で言うなら約5%ほどの人たちだけが使うローカル宗教の名称ですが、567という数字は地球はおろか、ほかの惑星に行っても通じます。

 

 

神界の文字は数字が多いと出口王仁三郎やスウェーデンボルグの文献にありますし、日月神示も原文はほとんど数字と記号で書かれていますので、多分神界やほかの惑星では567という数字で意味が通じるのではないか?と思われます。少なくとも火星や金星などほかの惑星では仏教の名前は絶対に通用しないでしょうし、釈迦が生まれる前の時代に生きていた人たちにも当然通用しません。

 

 

神と人間の関係はプライベートなものでなくて、あくまで宗教団体に入信し、どこそこの信者にならなければいけないとは私には思えませんので、無理に出口王仁三郎が言うように宗教染みたミロクという言葉を使う必要もないように感じますし、また仏魔や仏教の霊界での邪悪な活動をある程度までは知っているので、個人的にも仏教系の名称にあまり良いイメージがありません。

 

 

個人的には本来霊的なことに最も進んでいなければいけないはずの宗教家が何千、何百年前の誤謬だらけの経典に書いてあることを繰り返すだけでむしろ神や霊についてほとんど理解しておらず、霊界の消息についても暗く、それどころか神や死後の世界を否定している人すらいるのは残念であります。

 

 

私としては無理に五六七に読みを当て嵌めずに、神界では数字や記号が多いと言いますから、そのまま五六七や567でOKな気がします。読み方は敬意を持って神名を唱えるなら人間のやることですからよほど変なものでなければ、神様はお許しになると思われます。

 

 

神に対する概念はその人の進歩段階、生まれ育った時代、民族、惑星、霊統(類魂団)、守護神・指導霊の影響を受けます。私が神を否定する仏にあまり良いイメージを持たないのもそういった影響下によるものです。逆に仏こそ至高、釈迦が如雲如煙と説いたように神や霊など存在しないという考える人もいます。どちらも進歩の過渡期における一つの姿に過ぎません。

 

 

霊が進歩向上するようになると段々と地球圏を離れてもっと大きな枠の中に入っていったり、またほかの天体に生まれたりするのですが、人間は死後ですら容易に自分の信仰に対する概念は変えられるものではなく、変化にはとても時間が掛ります。

 

 

霊が地球圏から離れて太陽や月や太陽系全体、銀河系全体という尺度で意識を持つようになり、また物質性が希薄になって遂には完全に消滅し無の世界に突入する段階に進歩していくと段々地球や地球の局所的地域でしか通用しない文化や宗教の形態に拘らなくなっていきます。

 

 

用語の意味は異なりますが、地縛霊というか地球に拘る人、地球という小さな枠組みやさらに局所的ないち文化圏でしか物事を捉えられない場合は、地上の宗教の色眼鏡を通して神を見るので、必然的に見える神もそれに応じたものになります。

 

 

同じ意味で例えば太陽系全体を一つの文化圏と意識できるレベルまで進歩した高度な霊も太陽系の意識レベルという色眼鏡で神を見るので、程度の違いはありますが、やはり自分の進歩段階に応じた神を見ることしか出来ません。銀河系や銀河団、天国の第1、第2、第3もみな同じです。

 

 

高い段階へ進むほどより自由度は増していくように思えますが、果たして極限というものがあるのかどうかは極めて疑問です。ここまで向上すればもう上はない、という段階が本当にあるのかどうかは私にはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれません。

 

 

ただ567という数字の組み合わせは、地球に限ったものではなく、ほかの惑星や銀河でも霊界でも通じますので、この数字そのものに霊的な深い意味があるように思えます。ここに何を見出すのかはその人の進歩段階によりけりです。

 

 

きっと出口王仁三郎が活躍していた明治や大正や昭和初期の頃の日本人の進歩段階では五六七=仏教のミロクで良かったのでしょうが、今となっては地球のローカル宗教である仏教の読みを当ててミロクと読むのははあまり本質を突いた捉え方とは思えなかったりします。

 

自分の進歩に応じて神の姿を見るのならば、五六七は仏教ではなくて、出口王仁三郎がまだ人間には早いと当時は明かさなかった霊的に密意を持った神のある特有の暗喩や顕現を現わすものであると感じています。

 

 

ちなみになんだか出口王仁三郎に対してあまり良いことを書いていないように見えますが、(大本教(に限らずどんな宗教団対にも)入ろうとは思いませんが)、私は出口王仁三郎を否定するどころかたくさんの有益な資料を残してくれた極めて立派な有り難い人だと思っています。資料はないよりは絶対にあった方が良いからです。

 

 

完全に歴史上の記録の中でしか知らない人物であり、徳川家康とか小野小町とかそういう感じなので、人格面についてどうこうは思っていません。ただ残っている文章を読む限りは超能力者みたいな力を持っていて、ちょっとはっちゃけた、破天荒な部分がありつつも、優しい、愛情深い人だったのではないかと思います。

 

 

出口王仁三郎や出口なおを悪魔みたいに言う人がたくさんいるのは知っていますが、私にはそうは思えません。