天の天照皇大神様は更なり、天の大神様、地の天照大神様、天照皇太神様、月の神様、特に篤く祀り呉れよ

(ひふみ神示)

 

いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。

(ひふみ神示)

 

 

日本の皇祖・最高神として伊勢神宮でお祀りされている天照大御神様ですが、ひふみ神示を読んでいると天照大御神様と天照皇大神様は完全に別の神として区別しているような記述が見られます。

 

これに関しては色々と諸説ありますが、出口王仁三郎が下記のように述べています。

ちょっと長いですが、全文転載します。

 

 

出口王仁三郎が大本事件で逮捕された際の裁判記録からで問が裁判官、答えが王仁三郎です。原文はこちら

 

恐れ多いことではありますが、日本国民の天照皇大神様(天照大御神様)への理解の助けになるかもしれませんので知っていることを書いてみたいと思います。

 

 

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●天照皇大神と天照大御神

問 此処で一つ訊きますがね、此の天照皇大神と云ふ神様は如何なる神格、及び、神業を為さるヽ神様ですか。
答 それは、我が皇室の御先祖様であつて、宇宙を総統してござる神様で、宇宙の主宰神です。
 詰り天之御中主神が言ふやうに霊です。そして、霊の力が高御産霊と云ふ一つの体で、霊力と体力とを、即ち、信仰と云ふのです。
 高御産霊と神産霊との霊が寄つて、それが御完成して顕現されたのが天照皇大神であります。それが所謂世界の神様であります。
問 能く判りました。
 さうすると、天之御中主命が顕現されたものが天照皇大神と……さう云ふ訳ですな。
答 それはどつかに書いてあると存じます。
問 判りました。
答 我が皇室はそれの御延長ですからそれで世界を統一為さる資格がある上言ふのです、さう言ふことを神道家は言ふのです、我々も教はつて居る──。
問 天照大御神と天照皇大神とは、御神格並に御神業に於て差異ありますか。
答 あります。
問 天照大御神と天照皇大神と……。
答 天照大御神と天照皇大神とは同じ方ではあります。同じ神様でありますが、此の間申しましたやうに、あの天照皇大神様は、譬へて言ひますならば内閣総理大臣、ああ天皇陛下に譬へると恐多いから内閣総理大臣を出しますが、内閣総理大臣公爵伊藤博文と言ふのと、それから公爵伊藤博文と言ふだけ位違ふのです。責任がそれだけ違ふのです。
 同じ方でも……公爵伊藤博文でも国家の為に尽して居りますから、普通の人とは思ひませぬから、国家の為に尽して居る人やと云ふことが判ります。
 詰りそれ位違ふと言ふのです。
 それで、御伊勢様には天子様の御宗廟として祀つて居るから天照皇大神、延喜式の祝詞にもさう書いてある。
 天津神社でも北京神社でも皆天照大御神様が祀つてある。是は新聞で御覧になつたと思ひますが同じ神でちよつと……。
問 此の大本に於ては天照大御神は天界に於ける主宰神と……。
答 其の時に……昔、さうであつたのです。
問 主宰神と説いて居るのぢやないですか。
答 それは古事記にありまして、伊邪那岐尊の御神勅が其の時にさうなつて居つたと云ふ……。
 それで、是は神代史を説く上に於て其の時のことを説いたのでありまして、今日はさうぢやありませぬ。
 今日はさうぢやない。其の時の或る神代史の評論を書いたのです。
 其の時には、天照大御神は高天原、素盞嗚命が大海原。
 併し、素盞嗚命が力がなくて悪神が出てしようがない、泣いてばかり居りました。
 さうして、天照大御神が心配されて、「お前は此処に居る資格がないから、母の居る黄泉の国に行け」と仰しやつた。
問 それはあとから訊きますがね。
 天照大御神は、さうすると、天界のみの主宰神と云ふことは、今はさうぢやないと云ふことか。
答 今はさうぢやないと云ふことです。
 古事記の説明の時はさうだつたのです。
 今日は、現に、天津神社にも行つて居らしやるでせう。奉天に祀つてありまつしやらう。
問 今はさうぢやないと、今は地上も主宰して居ると、斯う言ふのだな。
答 其の時の古事記の神勅の段の説明をした時にはさうやつたのです。けれども、今日はもう変つて居ります。
問 さうすると天照大御神と皇大神とはどう云ふ風に違ふのか。
答 それはなぜ違ふかと云ふと、天皇陛下が直接に御参りになる。宮様が宮司になつて居らはつしやり、皇族様が……御伊勢様はそれだけ資格が上なんです。天照皇大神様はー外の神様は官幣大社でも、中社でも、天照大御神様が祀つてある。御伊勢様だけが皇大神として祀つてある。
 それで、矢張り、伊勢神宮となると違ひます。刑法でも伊勢神宮は……それから外の神社と比べて不敬なことでもあればな、刑法の罪にしても重くなつて居ります。伊勢は別に罪が重うなります。
 それだけ、矢張り尊重されて居る。
 それから、何も斯うなる。熱田の宮もさうなる。御伊勢様と同じ扱ひに今度なつたのです。
問 ああ、あなたの主張は判りましたがね。天照皇大神と云ふのは天之御中主命の極徳の発揮された神であつて、天照大御神様が天界のみの主宰神として、神格、神業に於て大変な差があると云ふことを……。
答 それは前に、一遍評論として、言霊学の見地から説いたのです。伊勢に祀つてあるのと外のとは違ふと云ふ意味で、言霊学で説いた。
 是は言霊学の見地から説いたので、今日それを大本の教義として居るのではありませぬ。
 是は言霊学上から見た所の天照大御神様の皇と云ふ字が入つて居るだけで違ふのです。
 同じ方でも、詰り、公爵伊藤博文に総理大臣と云ふのが入つて居るのと同じなんです。皇と云ふことは、統べると云ふことです。

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誤解を避けるために全文掲載しましたが、要約すると出口王仁三郎は天照皇大神と天照大御神は同じ神様だけれども、その神格と職分が異なる場合に別の神名を用いていると述べています。

 

天照大御神様の御は単なる丁寧な装飾だと思われますので、天照大御神様=天照大神様と考えても良いかもしれません。

 

 

日本国初代総理大臣である伊藤博文で例えて「内閣総理大臣・伊藤博文」と「公爵・伊藤博文」は同一人物であるけれど、(当時は)日本にたくさんいる珍しくもない侯爵という社会的地位の伊藤博文と日本国の政治の頂点にある内閣総理大臣の伊藤博文では格も責任も全く違うと言っていますが、裁判での答弁という特殊な条件を差し置いても一応のところはこれが出口王仁三郎の考えであると言えます。

 

神界・霊界では分魂は珍しいことではなく、中級の仙人でも普通に分身を使っている話などがありますから、天照皇大神様と天照大御神様は分魂なのかもしれません。


 

日本の現代神道では天照皇大神様(天照大御神様)は太陽神ということになっていますが、

日の大神というと伊弉諾大神を指す場合あり、月の大神は伊弉冉大神を指すこともあります。

 

 

天照皇大神様は宇宙の根源神である天之御中主神の極徳を円満具足に備えたる神であるとよく出口王仁三郎の文章に登場しますが、天之御中主大神様の御精霊体を完備したのが天照皇大神様であり、よく天の大神様という記述を出口王仁三郎の文献では見かけます。

 

 

(中略)同大神(天之御中主神)の御精霊体の完備せるを天照皇大神、撞の大神と称ヘ天照皇大神、伊邪那岐尊、伊邪那美尊は三神即一神にして之を撞の大神、みろくの大神、天の御三体の大神又は天の御先祖と称ふ撞の大神は国常立尊を大地球の先祖として大地の修理固成を命じ給ひたるを以て…

 

 

天照皇大神様は天の大神様と申し上げ、天の祖神であり、幽の顕の神の総べ給う最高神であり、対して天照大御神様の神格と職分はあまり詳しく述べられていませんがもっと限定された範囲での神名であるという意味だと思われます。整理された文章ではなく裁判中の速記であり、なお且つ裁判という特殊上なのでややわかりにくい印象を受けます。

 

 

また天照皇大神様は撞の大神様または出口王仁三郎は五六七みろく大神様とも読んでおり、ひふみ神示にも弥勒大神様(ミロク大神様)という神名は登場します。

 

 

ミロクという名称は仏教の名称であり、元々はインド人たちの言葉です。インドではマイトレーヤーと呼び、モンゴルではアイダリプロハラと呼び、シナ中国では弥勒と呼びます。

 

 

神仏混交でマイトレーヤー大神や弥勒大神という名称はよく見かけますが、仏魔の正体を絶対に知っていたであろう出口王仁三郎がなぜインディアンやシナ中国の名前を使うのかは疑問ではあったのですが、彼は仏教の名前を使う理由を以下のように述べています。

 

 

(中略)それで、私は、又、皇典講究所に入つて、日本の神道を能く知つて居りますから、日本の神道は要するに、世界各国に弘げたならば、日本の皇室の稜威が輝くのであるから、之を弘めさへすれば、日本の教を弘めさへすれば、世界が平穏無事に治まると云ふのが、根本原理ですから、日本の皇道を宣布する、世界に……それが元であります。
 併し、宗教的にやるのですから、それで日本の神さんばかりと云ふ訳にいかぬ。支那の神さんの名をも取り、印度の仏の名も使用したり、或は能く判るやうにキリストの名も使つたりして居りますが、如何にも是はキリストの言ふ、ゴッドと云ふのは、此の神さんだ、此の神さんであるとか云ふやうに、宗教宗教に判るやうな宗教名を付けたのです。
 それで、ミロクさんと云ふことは、実は私は日本の皇典講究所を出て居るので、仏の名は聴きたくない、弥勒なんか云ひたくない。
 併しながら、さう云はなければ、宗教らしくならぬ、それで宗教らしくなければ、信仰も流行らないと云ふので……。

 

要約すると(明治・大正・昭和初期の)日本の社会で「宗教として」やるためには、日本には外国の宗教である仏教やキリスト教がかなり入り込んでおり、特に仏教の勢力は強かったため本当は嫌だけれど、致し方なく仏教のシナ中国の呼び名である弥勒(ミロク)という言葉を使っているということです。

 

その方が宗教としては(少なくとも当時は)民衆に伝わりやすいという意味でしょうか。

たしかにキリスト教と仏教と並んで3大宗教と言われるイスラム教については布教にあまり活用出来ないという理由からなのかイスラム教の神や天使の名前に触れることはあまりなく、そのほかユダヤ教やヒンドゥー教シク教、ブードゥー教などはほとんど引き合いに出していません。

 

wikiによればキリスト教約20億人(33.0%)、イスラム教(イスラーム)約11億9,000万人(19.6%)、ヒンドゥー教約8億1,000万人(13.4%)、仏教約3億6,000万人(5.9%)と言われていますので、イスラム教やヒンドゥー教についてほとんど触れず、仏教に多く触れているのは明らかに日本国内で宗教として広めるために敢えてそうしているということがわかります。

 

 

日本で宗教として広めたいなら、ヒンドゥー教やユダヤ教やイスラム教の神や天使の名前を使うよりも仏教とキリスト教の名前を使うのが手っ取り早く伝わりやすいというのはわかります。そんな中で弥勒と書かずにミロクやみろくと書くのはせめてもの抵抗のような気もします。

 

 

多分本当は天照皇大神のみで通したかったのでしょうが、現実問題として外国の宗教である仏教が普及した日本においては天照皇大神様よりも、あるいはマイトレーヤーやアイダリプロハラよりも弥勒(ミロク)の名前が一番民衆にわかりやすいと考えたのだと思います。

 

 

「仏の名は聴きたくない、弥勒なんか云ひたくない。」

と言っており、別の所では万教同根を唱えているものの、至尊至貴に坐す天照皇大神様に仏教の名称を使うことを嫌い、どちらかというと仏教を嫌悪しているようにも受け取れます。

 

 

万教同根というと聞こえは良いですが、それは単に歴史的な事実であって現実には仏界が神界を支配しようと大挙して侵略してきたり、死後仏教徒が本来神界に入るべき人を拉致・監禁して仏界に閉じ込めてしまうetc…、などの悪行は異教備忘録や幸安幽界物語などに書いてあり、出口王仁三郎も擁護しきれない部分があったのではないかと思います。

 

 

仏魔の存在を知っていれば、彼の「仏の名は聴きたくない、弥勒なんか云ひたくない」、というのは私個人としてはよくわかる心情です。

 

 

たしかに現代日本でも天照皇大神様と天照大御神様はゴッチャになっているでしょうし、マイトレーヤー(弥勒菩薩)が五六億七千万年後に云々~という仏教の伝聞も上手く利用すれば、弥勒という名前は日本では割とよく知られているわけですから大本にとって新規の信者獲得にも便利だったはずです。

 


日本ではマイナーなイスラム教やヒンドゥー教の神や天使の名前は用いずに、メジャーどころの仏教とキリスト教の名前を使う戦略傾向はほかの新興宗教にも見られます。もし日本でイスラム教やヒンドゥー教が仏教くらい強ければイスラム教やヒンドゥー教の話が出口王仁三郎の口や書いたものに出ていたかもしれません。

 

 

しかし彼が「仏の名は聴きたくない、弥勒なんか云ひたくない」というのであれば、よくミロクの世とかマイトレーヤーの世とネットで見かけますが、私は個人的には天照皇大神様の世と申し上げたいです。

 

 

世界には色々な宗教があり、またその国々の人たちが文化や風土や民族的気質に沿ってそれぞれの神を祀るのは良いことだと思いますが、日本はインドでも中東でも西洋でもないわけですからやはり出口王仁三郎は日本の神で宗教をやりたかったような文言を読み取ることが出来ます。

「宗教的にやるのですから、それで日本の神さんばかりと云ふ訳にいかぬ。支那の神さんの名をも取り、印度の仏の名も使用したり、或は能く判るやうにキリストの名も使つたりして居りますが、如何にも是はキリストの言ふ、ゴッドと云ふのは、此の神さんだ、此の神さんであるとか云ふやうに、宗教宗教に判るやうな宗教名を付けたのです。」というのはそういうことのように感じます。

 

 

 

またひふみ神示には「同じ名の神が2つある」という言葉が良く出て来ますが、天と地で同じ名前の神様が登場します。これを踏まえて出口王仁三郎の解釈でいくと、冒頭のひふみ神示は

「天の天照皇大神様(天の天照皇大神様)は更なり(言うまでもないが)、(重複して)天の大神様(天の天照皇大神様)、地の天照大神様(天照大御神様)、天照皇太神様()、月の神様(伊弉冉大神様?月読大神様?素戔嗚大神様?)、特に篤く祀り呉れよ」という風に取れます。

 

 

天の天照皇大神様または天の大神様=天照皇大神様

地の天照大神様=天照大御神様

ということになりますが、この2神とは別に天照皇太神様という神名が登場します。

 

 

月の神様はともかくとして、ひふみ神示は8通りに読めると書いてありますが、私は原文を見たことがありませんのでまず果たしてこの解読と漢字に直した神名が絶対的に正しいのか?ということに疑問を持ちますが、日本神話には天照という名を持つ神は二柱登場し、一柱は三柱貴御子の天照大御神様であり、もう一柱は皇孫である天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という神様が登場します。

 

 

皇孫というと邇邇芸尊様が有名ですが、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊様(以下饒速日尊様)は邇邇芸尊様の先立ち地上世界に降臨された神様です。

 

 

饒速日尊様については近年ネットで色々言われていますが、天照国照彦という名前は簡略すれば天照様とも言えますし、ひふみ神示の天照皇太神様=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という風にも取れます。

 

 

天の天照皇大神様または天の大神様=天照皇大神様

地の天照大神様=天照大御神様

天照皇太神様=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊

 

という風になるのかもしれません。

神名が似通っていて非常にわかりにくいです。多分初めてひふみ神示を読まれる方は軽く読み飛ばしてしまいそうな感じです。

 

 

ただ出口王仁三郎が言っているならともかくとして、天照皇太神様=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊様はほかに天照という神名を持つ神様がおらず、完全に別の神として天の天照皇大神様、地の天照大神様、天照皇太神様という風にひふみ神示で述べられていることを根拠とした私の想像に過ぎません。全然違っている可能性は多いにあります。

 

 

ひょっとしたら天照皇太神様は記紀や神典類に全く登場しない全く別の神様の可能性もあります。人間の世界に伝わっていない歴史を照らし合わせないと理解出来ないような未知の領分かもしれません。

 

 

 

もしそうであればお手上げですが、恐れ多いことでありますのでひふみ神示で天の天照皇大神様、地の天照大神様、そして天照皇太神様という三柱の神が別々の神として神名が唱えられていることを踏まえた上で、あとは諸氏の判断に任せたいと思います。

 

 

間違った説を世に放つことは社会に対する害毒であり、神様の最も嫌わせ給うことでもあり、また死後重い苦しみを受ける理由の一つにもなりますので、出口王仁三郎の言はともかく私の推測は「ふ~ん」くらいに留めておいて下さい。