ものは離すからこそ掴めるのぢゃ。固く握って戸しめていてはならんのう。扉開けておけと申してあろうが。着物脱いで裸体となること辛いであろうなれど、脱がねば新しい着物着られんぞ。裸になってブツカレよ。神様も裸になって そなたを抱いて下さるぞよ。

 

神は六ヶ敷いこと云はんぞ、神に心皆任せてしまうて、肉体欲捨ててしまふて、それで嬉し嬉しぞ

 

御用いくらでもあるぞ、お蔭取り徳ぢゃ。出来るだけ大き器持ちて御座れよ、皆々欲がチビイぞ、欲が小さいなあ。話すことは放すことじゃ、放すと掴めるぞ。

(ひふみ神示)

 

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誰しも自分の希望、願望、欲しいもの、やりたいこと、一言で言えば欲望ですが、きっとあるはずです。人の役に立ちたいというのも欲望ですし、金や名誉を得たいというのも、霊的に進歩向上したいというのも欲望です。

 

 

個人的にとても気になるのが「離すと掴めるぞ」というひふみ神示の言葉ですが、たしかになんとなく言っていることはわかりますが、実感するレベルにまで達していません。

 

 

私にも当然やりたいことや欲しいものがありますが、それを離して掴んだことがないのでなんとも言えない状況です。

 

 

「着物脱いで裸体となること辛いであろうなれど、脱がねば新しい着物着られんぞ。」というのは比喩であり、慣れ親しんだ安楽なこちらの岸を離れないと、新しい向こう岸には行けないというようなニュアンスですが、たしかに現状の少なくともある程度の安心や安全や安楽が維持されている現状から抜け出しすというのは難しいです。

 

 

自分の身と楽を捨てて世の中のために働くことが神の道ですが、自分の身と楽を捨てる=離すということなので、もしそれが出来るなら「神様も裸になって そなたを抱いて下さる:ということなのでしょう。

 

 

宇宙全体のことどころか他人のことすらわかりませんが、これだけは確信して言えるのは神様は人間に対して愛情を持って、正しく本当の意味で永遠の見地から幸福になれるようにという立場で人間に接しているということです。

 

 

これは間違いなくそうだと経験から感じます。

全知全能や個々人の善の守護神は間違いなく人間に深い愛情と憐れみを持っています。

 

 

人間が痛い目を見るのは自然の摂理や霊的な意味での道徳的な法則などから外れるからであって、神様が意図的に人間を虐めているわけではありません。

 

 

例えば泥棒や強盗を楽しみたいとか、働きたくないけど宝くじが当って欲しいとか、こういう願望をもし無制限に叶えてしまったら、多分人間たちはどんどん駄目になって最後は破滅してしまうでしょう。

 

 

「神に心皆任せてしまうて、肉体欲捨ててしまふて、それで嬉し嬉しぞ」というのは難しいですが、これが一体どういう結果になるのか知りたいですし、知ることは一段進歩したことになると思いますので、まずはやってみようかと思います。

 

 

霊的な書物は良いことがたくさん書いてあり、なんだかちょっと進歩した気分になれるのですが、実際に体験として魂に刻まなければ本当の意味で進歩したとは言えません。口先だけでなくわざわざたくさんの霊が物質界に生まれてくるのもそれが理由の一つです。