そなたはよく肚をたてているが、肚が立つのは慢心からであるぞ、よく心得なされよ。
神に怒りはないのであるぞ、天変地異を神の怒りと取違ひ致してはならん。太神は愛にましまし、真にましまし、善にましまし、数にましますぞ、また総てが喜びにましますが故に怒りはないのであるぞ、若し怒りが出た時は、神の座から離れて了ふのであるぞ。
人間は現界、霊界供に住んで居(お)り、その調和をはからねばならん。人間が悩みや怒りもつと、その持物までが争ふことになるぞ。早う気持ちから洗濯して下されよ。死んでも続くぞ。結構に始末せねばならん。
下肚からこみあげてくる怒りは大きな怒りであるから、怒ってよいのであるなれど、怒りの現はし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短かくして下されよ。怒りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りあるぞ。胸からの怒は怒るなよ。昔から無いことするのであるから、取違いもっともであるなれど、分かるミタマ授けあるぞ。
(ひふみ神示)
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生きていると腹が立つことがたくさんあるはずです。
人生で腹が立つことなんて生まれてこの方一度もないなんて方は相当身魂が磨けているか、感情が欠落しているかどちらかで、普通の人間は人生の様々な出来事において腹が立ったりするものです。
しかし、「腹が立つの慢心」とひふみ神示にあるように自分を偉い者だと慢心しているから腹が立つというのもあるでしょうし、そもそも人を助けて神の役に立つのが人間の本分であるはずなのに、怒りっぽい性格というのは人間として未熟の証拠であると言えるでしょう。
人間がよく出来ている=身魂が磨けている人は簡単に怒ったりはしません。怒ると同じ波長の悪霊を引き寄せてしまいますし、健康にも良くないです。
とは言え、ムカつくことがたくさんあるはずです。
しかし霊界物語に非常に印象的なエピソードがあるのでご紹介したいと思います。
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松鷹彦は雪路を杖を突き乍ら先頭に立ちて、バラモン教の宣伝使と聞えたる友彦館に案内すべく進み行く。真浦は翁の後に七八尺遅れて、一歩々々深雪の中の足跡を目標に進む折しも、秋彦、駒彦は物をも云はず、真浦を引抱へ、数丈の崖下に突落した。突落された真浦は何の負傷もせず、高く積もれる雪の上にニコニコと安坐して三人の姿を仰ぎ見て居る。
秋彦『モシ真浦さま、どうだ、御気分は宜しいかな。どこもお怪我は御座いませぬか』
真浦『ハイ有難う、無事着陸致しました』
駒彦『サア六十五点に三十五点を加へて百点だ。肉体は高所から落第したが、御霊はいよいよ立派な宣伝使に及第したのだから喜び給へ』
松鷹彦、目を円くし、
松鷹彦『コレコレお前達は何と云ふ乱暴な事をするのだい。世界の人民を助けて天国へ救ふ役であり乍ら、地獄のやうな断崖から突落すと云ふ事が有るものか、グヅグヅして居ると此老人まで、どんな事をするか分つたものぢやない』
秋彦『お爺さま御心配下さいますな。身魂調べの為に、吾々両人は言依別様の御命令に依りて、あの男の修業をさせに来たのです。ここで腹を立てる様な事では、宣伝使の資格がないのだから、謂はば我々は宣伝使の試験委員だ。是れであの男も立派な宣伝使になりました』
松鷹彦『こんな絶壁から落されては、どうする事も出来ない。何とか工夫をして此処まで救ひ上げて来なさらねばなりますまい』
秋彦『何も御心配は要りませぬよ。獅子は児を産んで三日目に谷底へ棄て、上つて来た奴を又突落し、三遍目に上がつた奴を、始めて自分の子にすると云ふ事だ。こんな所から一遍や二遍突落されて屁古垂れる様な者なら、到底駄目だ。悪魔の栄ゆる世の中の宣伝使にはなれませぬ。上つて来よつたら、又突き落す積りです』
松鷹彦『それだと言つて、それはあまり残酷ぢやないか。早く助けてお上げなさい』
秋彦『そんな宋襄の仁は却つてあの男を憎む様なものだ。可愛いから此断崕から突き落してやつたのです』
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これは新米宣伝使の天の真浦(天津麻羅)がその心根を試されて、仲間に安全とは言え谷底へ放り投げられてしまうシーンですが、天の真浦は怒ったりはしていません。
多くの場合、いきなり仲間から谷底へ放り投げられたら腹が立つものです。
「ここで腹を立てる様な事では、宣伝使の資格がない」と述べていますが、私は別に宣伝使ではありませんが、人の役に立ちたいという意味では同じです。
ちょっと何かあったからと言って簡単に怒ったりするようでは、人を助け守る側の人間としては力不足でしょう。
簡単に怒ったりする人間は単純に人として未熟ということです。
もっと面白いのもあります。
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魔我彦は恐相に谷底を覗き見て、驚いた様に、
『アヽ大変々々』
と足掻をする。玉、国の二人は其驚きに何事か大事の突発せるならむと、慌て谷底を覗く。魔我彦は竹彦に目配せし乍ら、全身の力を籠めて二人の背後よりドツと押した。何条堪るべき、二人は千仭の谷間に風を切つて顛落した。木々の青葉は追々黒ずんで、太陽の高山の頂きに姿を隠し、黄昏の空気四辺を圧する。
魔我彦『アハヽヽヽ、何程立派な宣伝使でも、斯うなつては駄目だ、玉、国の両人、言依別の教主に巧く取り入り、変性男子の系統の高姫さまに揚壺を喰はし、若彦の女房…元のお節や杢助の女つちよに御用をさせる様にしよつたのは、皆此奴等の企みだ。是れから先、生かして置けば、どんなに邪魔をしやがるか分つたものぢやない。一つはお道の為、国家の為ぢや。竹彦、巧く行つたぢやないか』
(中略)谷底へ落とされますが、奇跡的に助かります。
国依別『オイ玉公、そんな気楽な事言つてる時ぢやないぞ。昨夜の讐を討つと云ふ……そんな気は無いが、併し吾々二人にあゝ云ふ非常手段を用ひた以上は、何かこれには深い計略が有るに違ない。余程これは考へねばなるまいぞ。杢助さま、どうでせう』
杢助『さうだ。グヅグヅして居る時ではない。余程注意を払つて居らねば、此辺は某々らの陰謀地だから……。さうして其悪者は誰だい。名は分つて居ますかなア』
玉治別『分つたでもなし、分らぬでもなし。他人の事は言はぬが宜しからう』
国依別『マガな隙がな吾々の行動を阻止せむと考へて居るマガツ神の容器でせう。何れ心のマガつた奴に違ありますまい』
玉治別『悪人タケタケしい世の中だから、誰だと云ふ事は、マア止めにして推量に任しませうかい』
杢助『モクスケして語らずと云ふ御両人の考へらしい。ヤア感心々々。それでこそ三五教の宣伝使だ。今迄の二人に加へた悪虐無道を無念には思つて居ませぬか』
玉治別『過越苦労は禁物だ』
国依別『刹那心だ。綺麗さつぱりと谷川へ流しませう。天下の政権を握る内閣でさへも、敵党に渡して花を持たす志士仁人的宰相の現はれぬ時節だから……アハヽヽヽ……マア此岩の上でカトウ約束をして、杢助内閣でも組織し、熊野の滝へ政見発表と出かけませうかい』
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玉治別と国依別の二人は谷底へ落とされて殺されそうになったにも拘わらず怒っていません。それどころか、自分を殺そうとした相手を傷つけまいと犯人が分かっているのに(まぁ言っているようなものですが)名前を出していません。
刹那心とか過越苦労は禁物だとか言って怒ってもいません。
助かったのは偶然で(ここでは神様の力ということでしょうが)、これは完全に殺人未遂です。犯人の方は完全に殺したつもりになっていて、
魔我彦『アハヽヽヽ、そんな取越苦労はするものでない。断崖絶壁屹立した、岩ばかりの所へ落ちたのだから、体は忽ち木端微塵、こんな者が助かるなら、それこそ煎豆に花が咲くワ。アハヽヽヽ』
なんて言っているくらいです。
しかし殺したはずの二人が実は生きていて自分のところにやって来るのでてっきり復讐されると思った犯人は、最後に命乞いをしています。
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魔我彦『ハイ、誠に申訳のない事を致しました。何うぞ命だけは御猶予を願ひます』
玉治別『人を助ける宣伝使がどうしてお前の命が欲しからう。お蔭で大変な修業をさして貰ひました。併し此後はあんな危険な事は止めて貰ひたいものだ。天の真浦の宣伝使が、駒彦、秋彦に宇津山郷の断崖から雪中へ落されたよりも余程険難でしたよ』
玉治別『赦すも許さぬもありませぬ。何事も神様の御経綸、我々に油断は大敵だと云ふ実地の教育を与へて下さつたのですから、其お役に使はれなさつた御両人に対し、御苦労様と感謝こそすれ、寸毫も不足に思つたり恨んだりは致しませぬ』
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自分を殺そうとした相手に対して、修行させてもらったとか、神様から実地の教育をしてもらったなどと言っていますが、怒ってもおらず恨んでもおらず、それどころか感謝していると言っています。
自分を殺そうとした相手に「人を助ける宣伝使がどうしてお前の命を欲しがろう」と言っていますが、自分を殺そうとした相手も助けるべき人の範疇に入っているということです。
もちろんこれは「物語」であり、寓話の中に教訓が織り込まれているわけですが、こんな人が現実にいたらまさに身魂が磨けているという人物と言えるでしょう。
しかしこうでなければ本当に人助けをし、神の役に立つような身魂にはなれないということなのでしょう。
ちょっとやそっとのことで怒ったり、イライラしたりするのは人間性の未熟さを現わすものであり、良きお手本として多いに参考になります。
ひふみ神示には清い怒り云々と書いてあり、実際そういうのもあるのでしょうが、人生の様々な出来事で怒ったりするのはそうではないものがほとんど全部なはずです。
そうでなくても怒らない方が良いに決まっていますし、怒ることは同じ波長の悪霊をたちを引き寄せたり、善の守護神様たちとの連絡が途切れてしまうことを意味しますし、自分のオーラから悪魔みたいな念霊が出てしまうことすらあります。
思えばイエスも散々酷い目に遭わされても自分が痛めつけられたからとか、自分の思い通りにならなかったからという理由では怒ったりはしていませんし、最後は悪くないのに汚名を着せられて殺されるのにやはり最後まで怒り狂ったりはしませんでした。
神様の話になりますが、国常立尊様や素戔嗚尊様といった善神たちもイエス同様に悪くないの酷い目に遭わされ濡れ衣を着せられて根底の国へ追いやられてしまいますが、それを理由に怒ったりはしていません。
それどころか国常立尊様も素戔嗚尊様もイエスも自分を酷い目に遭わせた人間を根底へ追いやられた後、または死後も守護しています。
人間を助けるということが第一義になっており、自分が酷いに遭わされて怒るような未熟な身魂ではないということです。
助けるべき人間を怒りに任せて傷つけるというのでは本末転倒で、自分で傷つけるくせに助けたいというのは矛盾しています。相手を未熟な身魂として許し、相手を助けてやるにはどうしたら良いか、少なくとも怒りに任せて暴れることではないということが魂の奥底まで染み込んでいることを意味しています。
助けるべき人間を相手の未熟さから、自分が傷つけられたり、殺されそうになったからと言って怒りに任せて傷つけては助けるも何もありません。目的と正反対です。
自分が怒るような場面こそ、まさに神様から与えられた実地の教育現場なはずです。