大平光代氏は、中学2年のときに同じクラスの番町格の生徒より陰湿ないじめをうけます。

その生徒から転校生だった大平光代氏はにらまれてしまいました。

そのうちに、クラスの全員から無視されるようになり、チョークで落書きされたり、彫刻刀で落書きを彫られるようになりました。

 

時には、大切な祖母からもらった筆箱が真っ二つにおられていることも。

トイレに入ると、上から水をかけられることもあったそうです。

 

そして、ついに登校拒否。

親が校長先生に話をし、次の日に学校に行くと仲直りの握手をするように求められます。

でも、いじめを受けていた大平氏は心では納得がいきませんでした。

 

クラスが変わって、いじめていた生徒と別のクラスになり、仲のいい友達が3人出来てグループになりました。

その友達から、いたずら電話の犯人にされ「早よ死ね」とか「ビョーキ持ち」などと言われ、無視されたり陰口を言われたりします。

 

ついに大平氏は切腹自殺を決意します。

ただ、お腹を刺しただけでは簡単には死ぬことはできません。

 

血だらけの彼女は救急搬送され、命が助かりました。

両親と學校側で話し合いがもたれたあとも、同じクラスで同じ担任が受け持つことになりました。

學校に行くと、今までと何も変わっていない現状がmなっていました。

 

精神の病気とされ、大学病院でさまざまなテストも受けさせられました。

前の学校では友達がたくさんいて幸せだったのに。転校したばかりにいじめを受けるようになりました。

 

ついに家出少年少女がたむろしている夜の街にいくようになったのです。

その時は14歳でした。

非行少女として学校に行かなくなった大平氏でしたが、美容師になってやりなおそうと思って受験の準備をし、合格通知をもらいました。

けれども、そのことを報告した母親は高校に行かないで美容学校に行くことを恥ずかしいと思ったようです。

 

ついに、入学した美容学校もやめてどん底まで転がり落ちていきました。

そして、家では暴れて親からお金をむしり取り、暴力団とも付き合うようになっていて、16歳にして暴力団長の妻になりました。

 

といっても周りから認められるはずもなく、背中に観音像と蛇の入れ墨を入れることにしました。

彼女はただ自分の居場所がほしかったのです。

 

結局、暴力団の世界にも嫌気がさして離婚し、北新地のクラブで働き出しました。

そこで、知り合ったのが養父となる大平氏です。

 

大平氏は、光代氏が小さいころから家に出入りしていた会社の社長で、就職先に困っている少年を受け入れ資格をといらせていた人でした。

その人があきらめずに光代氏とマ何度も会う約束をして、どんな話も耳を傾けてくれました。

 

ついに再出発を決意し、求人募集に履歴書を出しても電話ですぐに断られます。

その理由が中卒だということでした。

 

彼女は、ついにどうしても忘れられなかった中学生の頃のいじめについて大平氏に話をしました。

それは、暴力団にいたときの経験よりもつらいもので、ずっとひきづってきたことを。

 

大平氏はこう彼女に話しました。

「だったら、復讐したらええやんか。でもその方法を誤ったらあかん。もし相手に危害を加えたり、陥れたりする方法で復讐したら、傷つけてしまった相手は二度と元に戻れへんし、自分自身にも跳ね返ってくる。それよりも最大の復讐は、自分が立ち直ることや。そして、なにか資格を身につけなさい。例えば、もし憎い相手が簿記3級の資格を持っているなら自分は2級をとりなさい。相手が2級なら1級。そうすると相手を追い越したことになって気持ちもすっとするやろうし、自分のためにもなる。これも立派な復讐心とちがうか」

 

その一言で、」これまで恨みつらみに向けていた全エネルギーを資格を取得するために集中したのです。

体の奥底から湧き上がるエネルギーは、ものすごい力になりました。

 

中学もまともに行っていなかった光代氏にとって1冊の本を理解することすら、大変なことでした。

食費を1日300円に抑えて宅建の予備校に学費をおさめました。

漢字すら読めなかった光代氏は、漢和辞典が真っ黒になるまで引きながらの勉強でした。

 

ついに試験の日。

そして一発で宅建合格。

 

そして、翌年に挑戦したのは司法書士試験。

しかし、大学で勉強していた人でも簡単に受からない司法書士試験。

そう簡単には受かりません。

 

大平氏に叱られながら、前向きに取り組めるようになっていた光代氏はついに2回目の試験で合格しました。

そして、司法書士の登録をした光代氏は、実家を訪ねました。

 

髪が真っ白になったお母さん。

家には自分がつけた傷のついたタンス。

 

手をついて両親に謝罪し、父から涙ながらに「もうええよ。よかった。本当に良かった」と話をするのでした。

光代氏は「これかららは、親孝行をしよう」と心に誓うのでした。

 

そして、次の目標は司法試験。

大平氏から「中卒でもできることを証明してみ」と言われて、受験することに決めました。

 

自分で勉強してもさっぱりわかりません。そこで、大学通信教育部の特修生コースで、1年間で高校3年分の科目に合格し、通信教育部に入学することができました。

 

そんな時に父親のがんがわかり、毎日病院に母親と交代で付き添う毎日。

1日のほとんどを試験勉強に当てていました。

 

そして、司法試験に一発合格。

29歳で司法修習生として採用され、京都に配属が決まりました。

 

2年後、両親と母親、光代氏が料亭で会い、父親が最後の頼み事として光代氏を大平氏の養子にしてほしいと言い出しました。

もう長くはない父親は、弁護士になって過去のことが世間に知れると弁護士としての活動のさまたげになるのではないかと心配したからなのでした。

 

その頼みを大平氏は受け入れ、大平光代になったのでした。

その後、テレビ番組からのドキュメンタリー番組の話があり、昔は世間体を気にいしていた母親から過去のこともすべてわかったとしても、それで道を踏み外した子供たちがやる気になるかもしれないと出ることを勧められたのです。

 

2年間大阪市の助役を務め、現在は結婚され、子供も設けて大阪の梅田弁護士事務所で弁護士として少年やいじめ問題に取り組んできました。

 

現在は、本の執筆や絵本、油絵にも取り組んでおられるようです。

 

大平光代著「だから、あなたも生き抜いて」より