上を見上げると、真っ白なTシャツが青空に映え、気持ち良さそうに風にゆらゆらと揺れています。
見ると、どれも手描きでイラストが描かれている。
さらに、Tシャツは真っ直ぐな通りの両側にびっしりと下がっているのが分かります。
ここは、蓮馨寺の山門前から伸びる立門前通り。土曜日というだけあって人通りが多く、立ち止まってTシャツを面白そうに見上げている方も多くいます。
「あ!あった!ここに下がってるよ!」
男の子がTシャツを指差してお父さんとお母さんに向かって叫んでいた。
一生懸命描いた自分のTシャツイラストをそこに見つけたらしく、嬉しそうに見上げていました。
Tシャツには、「アートクラフト手づくり市」と書かれていた。
導かれながら通りを真っ直ぐ進むと、川越織物市場にたどり着きます。
以前とは風景が変わっていることに驚いた方もいたと思います。
今までそこにあったものが、今はなくなっています。
織物市場へ入る入口横には、古い木造建物が2棟建っていました。
(2014年春までの姿)
川越織物市場は昨年、川越市が正式に所有権を取得し、
現在は市の指定文化財となっています。
今年度から保存再生に向けた動きが具体化し、
夏から始まった工事の中で
入口の建物は取り壊され、これから公共トイレが建設される予定です。
今その場所には、いくつもの出店が並び、賑やかな雰囲気が通りに漏れてきています。
建物がなくなった分、奥にある織物市場まで見通しが良くなり、
より身近なものとして感じてもらえるかもしれません。
2014年11月15日、16日。
川越織物市場で開催されていたのが、
「アートクラフト手づくり市」です。
今回で3回目の開催となり、毎年秋の恒例イベントとなってきました。
この日を楽しみにしていた方も多いのではないでしょうか。
秋開催がアートクラフト手づくり市で、
今年の春には手づくり食市が開催されました。
普段は立ち入り禁止の川越織物市場ですが、
秋と春で開放され賑やかな場となり、多くの方にこの建物に触れて知ってもらう機会となっています。
3回目ということもあり、イベントとしてかなり認知されてきたのを会場の雰囲気から感じました。
前回より明らかに人出が多かった。
前回までは時間帯によって人がまばらになる時がありましたが、
今回は終始人でごった返していました。
その賑わいは、かつての織物市場の喧騒はこうだったのかもしれない、と想像が膨らむものでした。
来場者は発表によると二日間で2500人、大きく育ってきたイベントです。
このイベントの全体は、
「ミュージアムロードto織物市場&
アートクラフト手づくり市in織物市場」
主催アルテクルブ 川越市提案型協働事業
●ワークショップ ミュージアムロードを彩るアートフラッグをつくろう!
子どもたちとアーティストがいっしょにアートフラッグをつくります
2014年10月12日川越市立美術館
そして、2014年11月15日16日の二日間にわたって開催されたのが、
●アートガイド《まちアート発見!》ツアー
川越のまちを歴史をアートの視点で歩いてみよう!
集合 小江戸蔵里11:00
●アートクラフト手づくり市in織物市場
この日、織物市場はアートクラフト手づくり市。まち歩きのあとは、
広場でお茶をしながら楽しい小物たちにも出会えます。10:00~15:00
アートフラッグというのがあの白いTシャツのことだったのです。
先月市立美術館でTシャツにイラストを描くワークショップが行われました。
子どもたちがアートクラフト手づくり市をテーマにお絵描きをしてもらい、
それをアートフラッグとしてイベントの告知ポスターのように立門前通りに今月掲げられていたんです。
こちらはお菓子のイラスト♪
出店するお店の美味しそうな食べ物の絵を一生懸命描いたTシャツがあったり、
楽しい雰囲気で通りを彩っていました。
まち歩きの方は、蔵里出発で2時間ほどの行程。美術家の小野寺優元さんがガイドを担当しました。
そして、メインイベントとして川越織物市場でアートクラフト手づくり市が開催されました。
川越織物市場は、明治に建てられた織物の問屋・取引所で、
当時のまま完全な形で残る全国唯一の木造建物です。
織物が盛んだった川越の象徴的な場所。
2棟の長屋が向かい合わせに建ち、
醸し出す独特な空気感に浸ると、どこかにタイムスリップしてしまったかのような感覚になり、
やはりここが特別な場所だと感じさせます。
手づくり市に出店しているのは、手作りにこだわっている方々の物や食べ物ばかり。
主催であるアルテクルブの草野さんは、
「このイベントの趣旨は、織物市場の活用、保存の提案、そして若い作家さんの活動支援です」
と語ります。
株式会社まちづくり山上(中津箒)
ichika(和小物)
羽工房 (木工)
green light(木工)
西村順子(織・服・小物)
俵木栄一(有機野菜・米)
NIMU(ぬいぐるみ)
帽子のクロマサ(帽子)
UYUTO(真鍮アクセサリー)
toir(焼き菓子)
ひつじ小屋(ぬいぐるみ・キッチン小物)
colorful earth(手漉き和紙)
KY(鍛金)
茶 岡野園 (お茶)
Dairy Stand Copoli(染谷悟)
野里(やき菓子)
monomuうだまさし(木工)
紅茶の時間(及川輝)
栞工房(陶器)
Boulanger Lunettes(天然酵母パン)
備前屋(お茶)
カランコロン(タコス移動販売)
中村桜(陶器)
MILES AWAY(ハンバーガー移動販売)
VANITOY BAGEL(ベーグル)
アトリエ倭(木工)
Hana Gokoro(花・アロマ)
matsurica(ガラス)
cometman(彫金)
AM工房(陶器)
川西硝子(ガラスペン・アクセサリー他)
踊る馬亭 鉄子(トンボ玉)
野菜や ながの(有機野菜)
うるし劇場加藤那美子(漆器)
旅する服屋さんメイドイン(服)
スタジオ羽65(染織・服・小物)
COUCOU(カフェ)
ガラスと文鳥(ガラス)
ひりまの家(フェルトぬいぐるみ)
WACCI(天然酵母パン)
こなのわ(天然酵母パン)
tack farm(有機野菜)
Pizza!Pizza!Pizza!(ピザ移動販売)
出店者の紹介や運営に携わっていたのが、ソコノワ。
3回ともこのイベントに関わり、なくてはならないお店と二人です。二日間とも織物市場に詰めて会場で動いていました。
「出店者の半分くらいは紹介しました。イベントの規模がもっと大きくなるなら、これから新たな作家さんも発掘、紹介していければと思います。この建物を有効活用してもっと知って頂ければ」
ちなみに、ソコノワの松村さんは学生時代、大正浪漫夢通りにある本屋、吉田謙受堂でアルバイトしていた。
当時はここに織物市場という建物があることすら知らなかったそう。
今そこで開催されるイベントに携わっている。不思議な縁です。
スタジオ羽65(染織・服・小物)の山本さんは、
一番街の近くにある弁天横丁にあるギャラリーなんとうりの方。
なんとうりは、古い長屋を改装して作られたギャラリーです。
廃墟だったところからギャラリーになるまでの軌跡は、以前から伝えています。
そこに住むテキスタイル作家さんが、こうして川越のイベントに関わるようになり、
山本さんは川越移住以来、いろんなところから声がかかり、
この7月につばさ館で開催された「エコプロダクツ展」では、
川越の発展を支えてきた世界に誇れるエコプロダクツとしての織物産業に注目し、
織物の展示と織物のワークショップが用意され、講師を務めました。
最新技術のエコプロダクツが展示される中で、
川越に織物という素晴らしいエコプロダクツがあったことの紹介と体験、その焦点の据え方が新しく好評でした。
(2014年7月エコプロダクツより)
さらに、アートクラフト手づくり市では毎回恒例となっている
川越工業高校デザイン科による機織体験も実施され、
この建物だからこその物や体験があって、織物を深く感じられました。
川越工業では、糸の染めから織りまで授業で実際に行い1ヶ月半かけてテーブルセンターを作っている。
学校で使っている機織機のうち2台をこの日持ち込んで
生徒さん自身が糸を染め、一本一本縦糸を機織にかけ、参加者に横糸を通してもらう趣向。
このブースも毎回たくさんの方の参加がある人気ブースです。
機織を授業に取り入れる学校は全国でも珍しい。
川越工業高校の前身を知っているでしょうか。かつて川越染織学校だった学校です。
昔から川越で織物を支えてきた学校であり、
今も授業を通して織物に興味を持ち、織物の仕事に就く生徒もいる、と
顧問の先生は話していました。
また、出店者の一人であるガラスと文鳥(ガラス)さんは、
川越工業卒業生。川工生ならではの物づくりへのこだわりは、
ガラスづくりにも存分に注ぎ込まれています。
細かいところまで作りこまれた文鳥たち。
特に色の使い分けの手間は気が遠くなるほど。
そして、どの出店者さんに聞いても、
手間を惜しまず手で作ることにこだわっているのは共通しています。
さらに、どれも質が高い。
これだけの来場者が訪れるのは、物の質の高さがあってこそ。
この活気を、きっと喜んでいるはずです。。。
12時40分過ぎ。
手作り市の会場入口には、川越織物市場の会をはじめ、ゆかりの方々が
通りに出てその時を待ち構えていました。
予定ではもうすぐここを車で通る。
その時に入口で停止し、窓を開けて挨拶して行くという話しがされていました。
織物市場の再生に尽力し、川越のさまざまなまちづくりの活動の中心人物だった
NPO法人川越蔵の会副会長の福田さんは、
10月3日に山の事故でお亡くなりになられました。
当日のニュース、翌日の新聞報道で知った方もいるかもしれません。
この日に四十九日法要が行われ、お寺に向かう前に
自身が保存再生に取り組んだ織物市場の前で車が止まっていくことになっていました。
四十九日に織物市場で賑やかなイベントが開かれるという、なんという因果でしょうか。
そもそも、このイベントで予定されていたまち歩きも、福田さんもガイドとして担当するはずだったのです。
近年になって存在感を増し、広く市民に知られるようになってきた川越織物市場ですが、
本当ならすでにもうこの世からなくなっていてもおかしくない建物です。
今ここに残っているのは、残そうと立ち上がった市民がいること、
川越織物市場の会ができ、地域の方を巻き込み保存運動が活発になった経緯があります。
川越織物市場は、明治43年に開場。
織物の問屋、取引所として、月に6回ほどここで定期市が開かれていました。
大正8年に市場としての機能を終了しますが、
ここから歴史の荒波に揉まれていきます。
閉場後は長屋と住居として使われます。
今で言う・・・アパートです。11所帯あった。
平成になるまでここに人が住んでいたことがそうで、全部の部屋が埋まっていた。
織物市場が盛んだった地域、例えば桐生や秩父、八王子、足利でも、
同じような織物市場が建てられましたが、
川越織物市場は長い年月の風雪に耐え、住居として使われていたにもかかわらず、
窓も木戸も明治に建てられた当時のままで、
完全なそのままの形で残っているのは全国でも川越だけです。
取り壊しの話が出ても人が住んでいるからできず、
この形のまま残った側面があります。
その後、時を経て、今から13年前に突如急展開が訪れます。
2001.11.02 旧織物市場を解体し、マンションを建設する計画が発表される
2001.11.03 「旧川越織物市場の保存再生を考える会」が設立
2001.11.10 署名運動を開始したことが新聞各紙で報道
2001.11.29 保存を求める陳情署名13449名分を川越市に提出
(最終署名者数は20314名となり、翌年一月末に川越市に提出)
2001.12.08 マンション業者と地域住民の初会合
マンション業者側に織物市場の文化財としての価値を説明
2001.12.14 織物市場「敷地」について、川越市が地権者との間で
売買予約契約を締結し、仮登記
2001.12.17-18 川越市の委託を受けた協同組合伝統技法研究会による
建物現地調査(→旧織物市場の文化財的価値が確認される)
2001.12.19 さいたま地裁川越支部、市場棟解体禁止で仮処分
監視のための泊り込みを開始(翌年6月まで)
2002.03.23 講演会「川越織物市場 文化遺産とまちづくり」を開催
2002.04.24 織物市場の本来の所有者(川越織物工業小組合)によって、
処分禁止仮処分がなされ、建物の取壊しが法的に不可能に。
2002.04.28 川越市制施行80周年記念事業の「小江戸DEモード」において
「小江戸ベストマッチ団体賞」を受賞
2002.08.22 川越市と、川越織物市場の場所にマンション建築予定業者との間に
事実上の合意が成立。川越市土地開発公社は、8月22日、理事会を開催し、
土地を買収する議案を可決。
2002.11.14 川越市・川越市土地開発公社が旧川越市織物市場のマンション建設予定業者との間で、
川越市土地開発公社が敷地を購入し、建物はすべて川越市が寄付を受ける旨の契約を締結
2002.11.20 旧川越織物市場の建物の所有権に関する訴訟は、
本日、すべて和解により終了
川越織物市場の会の方々は振り返ります。
「取り壊されると知って、残さなきゃ!」
と使命感のような気持ちから動き出した。
完全な形で残る織物市場は全国でここしかない。
その意味を理解している方が川越にはたくさんいる。
突如発表されたマンション計画に、すぐに市民が立ち上がり、
川越織物市場の会が作られた。
その中心にいたのが福田さんです。
建物の保存が決まった後も、精力的に活動し、
川越織物市場の会の方々も、「福田さんがいてこそ」と語ります。
「織物市場をみんなで真っ黒になりながら掃除したのが懐かしい。かけがえのない人を亡くした」と振り返ります。
織物市場にある由来が書かれた幕、立て看板はみんな福田さんが制作したものです。
イベントがあれば記録のために写真撮影し、前回のアートクラフト手づくり市でも熱心に撮影していたのを覚えています。
福田さんは織物市場だけでなく、近くにある旧鶴川座再生にも情熱を燃やし、
全国の芝居小屋を見て回るほど、鶴川座への思いは並々ならぬものがありました。
旧鶴川座は、明治時代に蓮馨寺内に建てられた芝居小屋です。
芝居小屋再生へのその情熱に初めて触れたのが、去年の9月、北鶴川座を市民で掃除した時のことでした。
そして、綺麗になった鶴川座で、
2013年11月30日、12月1日、上映された映画が、
『映画 中村勘三郎』でした。
「勘三郎さんの功績というのは、
私たち芝居小屋をなんとかしたいという人たちにとっては、
本当にかけがえのない人でした。
本当に惜しいことに昨年の12月に他界されました。
私たち川越蔵の会は、全国芝居小屋会議という所に所属しています。
勘三郎さんにはたくさんお世話になったんだから、
ご霊前に感謝状を届けましょうという話しになりました。
それで、いろんな方に話しが伝わって、
勘三郎さんの事務所から電話を頂きまして、
『感謝状、天国の勘三郎は本当に喜んでいるはずだよ。
みなさんにぜひ1本の映画を贈ります』
というお話を頂きました。
その映画は、
『東京ではかけない、芝居小屋で。勘三郎の気持ちだよ』と、言ってくださいました。
川越には、一番街などの観光ゾーンがあって、
喜多院などの歴史ゾーンがあり、クレアモールの商業ゾーンがある。
ここ鶴川座が復活すれば、
それらを結びつける接点になるのではないかなと思います」
ここで勘三郎さんに演じてもらいたかった。
これから私たちは、この鶴川座の復活の活動をしていきたいと思います」
そして、この時期に、福田さんはもう一つ大事な事業にも取り組んでいました。
それが福田さん最後の事業になった、弁天横丁の長屋再生です。
一番街からほど近い場所にある弁天横丁。
このあたりは、かつて「芸者横丁」とか「べんてん横丁」などと呼ばれ、
通りの名称から想起させる言葉「三味線」「芸者」などにより
置屋さんがあった場所とわかります。
喜多院裏手や蓮馨寺と同じく、花街として当時は相当な賑わいがあったでしょう。
現在では、老朽化した建物が集まる場所ではありますが、
大正期に建てられた長屋が2棟、土蔵をリノベーションした酒場の建物なども残っています。
一番街の喧騒から離れ、弁天横丁は静かな時の流れを感じることができる貴重な場所です。
そして、大正初期に建てられた長屋の一軒を改装し、
住居とギャラリーを併設した場所として生まれ変わらせようという計画が、昨年から続いていました。
数ヶ月がかりの計画です。
昨年秋に足を踏み入れた時は、建物内はまさに朽ちるに任せた状態で、呆然となるようなありさまでした。
本当にここが人が住めるようになるんだろうか、と思ったのを覚えています。
住む予定であり、この時一緒に改装工事に参加していたのが、今なんとうりの住人となっている山本さん。
アートクラフト手づくり市に出店していた、あの山本さんです。
真っ暗な室内でも自然光に照らされた壁の色合いがなんとも言えず味わいがあって、
卵色、ピンク、黒色の漆喰壁が作り出す濃い陰影は、見ていて飽きないものでした。
格子窓から見通す外の風景は、
まったく平成には見えない風情があります。
壁に床に、水まわりに、手間のかかる改装を
率先して行い、みんなを引っ張っていたのが福田さんでした。
あの日、建物に足を踏み入れた時、一階に照明が入った時の感動は今でも覚えています!
暗い中の陰影も綺麗ですが、
灯りが灯ると生活感が生まれて、生きた場所に見えてきました。
壁には下貼りとなる和紙を糊で一枚一枚貼っていき、
この上にさらに和紙を貼り、2枚重ねにしました。
和紙の2枚重ねとなった壁は、部屋の雰囲気とバッチリ合っていました。
和紙自体が呼吸するので、和紙の壁に囲まれた空間は居るだけで癒されます。
和紙を貼る相談をしている福田さんと山本さん。
福田さんが中心となって動いた長屋再生は、
2014年3月にギャラリーなんとうりオープンという形に漕ぎつけました。
ここを文化芸術の発信地に、と願っていた意志を引き継ぎ、
これから様々な展開が期待されるギャラリーです。
2014年9月13日には、蓮馨寺をメイン会場に
周辺商店街が一体となって作り上げたイベント、
「昭和の街の感謝祭」がありました。
昭和の街というのは、本川越駅から北に真っ直ぐ進むとある、
『連雀町交差点』から始まり『仲町交差点』まで北に続く中央通りのことをいいま
この通りの活性化にも蔵の会は積極的に関わっていて、
昭和の街の一大イベントとして企画されたのがこの感謝祭。
蓮馨寺の広場には、COEDOビールに珈琲、河越抹茶使用したドリンク、
いもの子作業所などが出店が並ひ、商店街ではスタンプラリーが企画されました。
COEDOは生ビール6種類を提供し、この秋限定のビールも投入されていました。
「これ美味しい!」と限定ビールが大人気だった。
昭和らしく赤提灯が下げられています。
この、「これ美味しい!」とCOEDOの限定ビールに感動していたのが福田さんだったんです。
美味しそうに何杯も呑んでいた姿が今でも印象に残っています。
織物市場の会の方々も、この時の福田さんの様子を鮮明に覚えている、と話していました。
その後、福田さんがまち歩きガイドを担当し、蓮馨寺から出発し、
知る人ぞ知る穴場スポットから昭和の街の案内まで、この日ツアーを2回行いました。
この日から2週間と少し経った時に、蔵の会のメーリングリストで訃報が流れてきました。
最初見た時は信じられず、まさかそんな、と思いました。
新聞記事で現実なのだと知りました。
ニュースが流れてすぐ、多くの方から悲しみの声が寄せられ、
その声にどれだけ人望があった方なのか改めて思いました。
福田さんとは一年あまりの付き合いしかなく、
共に何十年とまちづくりに取り組んできた方々がいることを思うと
ここにこうして書くのは憚られるのですが、
この短い期間だけでも率先してこんなに活動してきた姿、
その背中に間近に触れることができたのは幸せなことだと思い、振り返らせて頂きました。
福田さんはいつも淡々としていました。
淡々と黙々と進み、いつの間にか大勢の人を巻き込んで大きな事をしていました。
誰の目にも見える危機を問題視するだけでなく、
福田さんは問題意識を創造する想像力があった。
弁天横丁はまさにそう。
そして突き進み、川越の風景を守り創っていった。
福田さんが亡くなったのは、川越にとって大きな損失だと思います。
バトンを受け取る、などおこがましくて言えませんが、
福田さんの背中を見ていた下の世代が、自分たちがやらなくてはと意識的に動き始めているのは、
やはり知らずのうちにバトンを受け取っているのだと思います。
力を合わせて自分たちができるまちづくりに取り組んでいきたいです。
川越にこういう方がいて、今の川越があることを、僅かでも記憶に留めて頂けると幸いです。
12時50分。
川越織物市場の入口に車が止まり、
半分ほど開いた窓から福田さんが織物市場の賑わいを嬉しそうに眺めていました。
織物市場の会をはじめ多くの方々が最後のお見送りをしました。
アートクラフト手づくり市は、
最初から最後まで二日間とも大勢の方で賑わいました。
この建物があって、より手づくりのものの温もりが伝わるようで、
温かい空気が終始流れていたイベントでした。
居心地の良さは、この建物あってこそ、
そして、この建物が今ここにあるのは・・・と建物を見上げるたびに思い出します。
川越織物市場は、これから創建当時の姿を取り戻そうと2020年の東京オリンピックまでに復元工事が行われ、その間も活用が議論されていくはずです。
このイベントのような活用実験が一つの参考になれば。。。
草野さんは来春をすでに見据えています。
2015年4月、
次回は手づくり食市として、手づくりにこだわった美味しいものが並ぶ市を考えています。
またこの場所で、特別な体験を楽しみにしてください。