「いつか、見渡す限り地平線の続く、大草原の真ん中に行ってみたい」
私はかつて、そう思っていたことがあった。
そして2年前の夏、モンゴルの草原に行くことになった。彼と。
実際に大草原の真ん中でひとりぼっちになってみたことのある人は、どれだけいるだろうか?
郊外に走るバスに乗って2時間、いつだったか教科書で見たことのあるような、白いテントが建ち並ぶ集落が見えてきた。バスから降り、私は乾いた大地に降り立ち、大きく息を吸い込み、吐き出した。とうとう来た、これがモンゴルの大草原だ、と。
数時間後、現地の民族の宴に参加する予定になっていたが、それまでは自由行動ということで、彼と草原を歩いてみることにした。彼は、どこまで遠くに行けるか試してみたいと、足早に草原を進んで行った。私は見るもの触れるもの、吸い込む空気、全てがまるで別世界のもののように感じて、少し進んでは足元の草花を眺めたり、遠くの地平線を見たりしながら歩いていた。
ふと前を見る。彼の姿はそこにはない。どこにいるのだろうと辺りを見渡すと、遠く小高くなった丘の上に、彼はいた。歩き続けていた。「」待ってよ」私はそう叫ぼうとしたが、叫ぶにはあまりにも遠く、この広い草原の中で私の声はすぐにかき消されてしまうような気がして、そのまま、遠くにいる彼を見つめていた。ああ、行ってしまう、見えなくなってしまう。そう思っているうちに、彼は丘を向こう側に下ったのだろう。姿が見えなくなってしまった。
「いつか、見渡す限り地平線の続く、大草原の真ん中に行ってみたい」
私のその思いは、その瞬間、現実のものとなった。誰もいない草原で、見渡す陰り地平線の続く大地の中で、わたしひとり。音はない。ただひたすら、かすかに感じる風の音と、私の実体がそこにあるだけだ。
しかし、そこでは私はとても弱々しく、ちっぽけだった。こんな、何もない寂しい場所に、彼は私を置いて行ってしまった。そう思った。私は、右も左もわからないこの大草原で、ひとりぼっちになってしまった、と。
きっと、大草原を独り占めしたときは、自由を感じ、私は何にもとらわれないのだと叫びたくなったりするのだろう。そう思っていた。しかし実際は、私のたった一人の実体を抱えて、孤独と悲しさと、自分の弱さを
感じることになった。彼は迎えに来てくれるだろうか、いや、こんなところまで彼が戻ってきてくれるのか、私は元いた場所に、一人で歩いて戻れるだろうか。そんなおもいが頭の中をめぐった。
そんなことばかり考えている自分に気づき、私は頭を上げた。一人で戻ろうと。こんな考えばかりしている。彼に頼っている私は、とても恥ずかしい、一人でどこにでも行ける、なんでもできると思っている強気な私を裏切るようで、負けてしまうようで悔しくて、とりあえず、元いた場所がに続くであろう方角へと、満ちなき草原を歩いていった。
歩きながら、彼のことは考えまいとしていた。私は、一人旅をしに来たのだと。彼の姿が見えなくなってしまっただけで、こんなに弱虫になってしまう私は、どうしても嫌だったから。
元いた集落が見え、ほっとした私の後ろから、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、少し離れたところに、彼が立っていた。
彼だ。私は安心したのと同時に、そんな自分が恥ずかしいやら悔しいやら、振り返ってはまたすぐ前に向き直り、彼を無視して集落のほうへと進んで行った。「私、怒ってるんだよ。勝手な行動して、私を置いていって」そう背中で言っているつもりで、気にせず歩いて行った。
彼は、「なに、怒ってんの」といって私に駆け寄り、「ねえ」と肩を組んできた。
「もう!好き勝手して!」私は彼のほうも見ず、そう言った。
「寂しかったんでしょ、ごめんごめん。実はずっと上から歩いてる姿見てたんだよ。ちゃんと戻ってこれてえらいえらい」そう、彼は笑いながら言った。その言葉が、余計悔しかった。
「ごめん、疲れたでしょ。一緒にアイス食べよう」そういって彼は、私の手を握った。「なんなの」口でそう言いながら、私の心と身体は、やはり彼がいることに安心しきっていることに、私は気づいた。
なんだかなあ、やだなあ。彼がいたら自由もひとりぼっちも、よくわからなくなってしまう。隣にあなたがいないと、なんだかよくわからなくなってしまう。困ったなあ、私、弱いんだなあ。
それは、2年前の夏、もう二度と訪れることはないかもしれない。
彼は今も、遠く離れた場所で、私のそばにいる。