谷口雅春先生の書かれた『大和の國の神示』と、拙著の『日本太郎の受難と復活』 | koreyjpのブログ

谷口雅春先生の書かれた『大和の國の神示』と、拙著の『日本太郎の受難と復活』

『大和の國の神示』の未来小説的解説

 

昭和56年(1981年)、アメリカで、占領下の教育史について研究されてゐた高橋史朗氏(現在、麗澤大学教授)によって、占領軍の検閲によって公表が禁止されてゐた『大和の國の神示』が発見され、谷口雅春先生に届けられた。全国の生長の家信徒が驚いたニュースであったが、私はその深遠な内容の神示を拝読し、ぜひ、これを若い人々にもわかりやすく解説したいと念願した。以下は、その解説である。また、末尾に神示の原文を引用してゐる。

 

私は、今から22年前の平成14年(2002年)に、作家としての処女作を書いた。題名は『日本太郎の受難と復活』である。それは、わが国の憲法を米軍による押し付けではない、本来の大日本帝国憲法に戻した後に、わが国が如何に変ったかにいついて書いた、未来小説であった。その中で、日本国内の改善を一通り為し終へた主人公の日本太郎が、愈愈外遊して、世界への貢献に改めて着手するくだりが、嘗て生長の家の谷口雅春先生がお書き下さった『大和の國の神示』の内容を、現象面で具体的に表す内容であるため、それを作者として自らが、此処に再録することにした。即ち、日本の「本当のすがた」(即実相)として書かれた神示を、現象的に地上に展開したものとして、お読み頂ければ幸ひである。(尚、此処に登場する主人公の日本太郎とは、日本そのものを擬人化したものである。また原文は現代仮名遣ひであるが、これを歴史的仮名遣ひに改めた)

(以下、『日本太郎の受難と復活』p.48~69より抜粋)

国内でなすべきことをなした日本太郎は、次に外交関係の修復に着手した。

まず、太郎は台湾を訪問した。台湾は五十年間にわたり日本が自国の一部として、近代化に力を注ぎ、その政策が成功した顕著な例である。そこで施された日本精神の教育により、多くの愛国者(愛日者)を生んだ。戦時中台湾は、多くの同胞が日本の国民として日本人と共に戦った戦友の国である。戦後大陸から来て台湾人(内省人)を酷い目に遭はせた中国人(外省人)とは対照的に、今でも戦前の日本人による統治時代を懐かしく思ふ人が多い。いや、彼らは日本人よりもはるかに親日的、愛日的であるとさへ言へる。

太郎はこれらのことを万感の思ひで噛み締め、正式に台湾と国交を結んだ。ここに大いなる日本精神と台湾精神の融合がなされたのである。それについて、台湾海峡を隔てた中国は「中国はひとつであり、内政干渉をするな」とヒステリックにわめきたてたが、太郎が「台湾は、元日本の一部であった。その国と国交を結ぶことのどこが悪いのか。要らぬ内政干渉をするな」と言ったら、何も言はなくなった。

次に太郎は、チベットを訪れた。ラマ教が盛んなこの国は、中国からいろいろと虐められて苦しんでゐた。「これからは日本が力になりませう。もし困ったことがあったら、なんでも言って下さい。例へば、留学生の受け入れや、教育施設や病院の建設など、なんでもお力になりませう」と励ましたら、涙を流して喜ばれた。

チベットの次には韓国を訪問した。北朝鮮との武力衝突が常に懸念され、緊張がなくならない宿命的な半島国家である。北朝鮮は、背後にロシアと中国といふ元の、または現在も続いてゐる共産主義国が控へ、時にはそれらの傀儡として動くこともある、なんとも面妖な国だ。いや、国といふより、一部のテロリストのアジトのやうなものである。大体、世界の民主主義国とは、人間の善意に期待して成り立ってゐるやうな性格があるが、北朝鮮はそれを逆手にとり、善意に非道で報ひるやうな、およそ人類の風上にも置けぬやうな、悪逆非道の集団なのだ。

太郎は韓国の大統領に言った。

「貴国が北からの脅迫に耐へ、自由と正義を守り抜いてをられますことに、おおきな敬意を表します。貴国は、戦前、戦時中までは我が国の一部でありましたが、今では立派に独立国としてやってをられます。それにはかつて我が国が導入した政治、経済、教育制度がお役に立ってゐることを嬉しく思ひます。今、もし北からの脅威などでお困りのことがありましたら、ご遠慮なく仰って下さい。我が国からも義勇軍を派遣する用意があります」

 これを聞いて、大統領の顔はパッと輝いた。太郎のアジア歴訪の旅は、まだまだ続く。次に太郎が訪れたのは、インドネシアであった。ジャカルタ空港に到着した太郎の耳に、懐かしいメロディーが聞えてきた。「みよ、東海の空明けて、旭日高く輝けば・・・・・」おお、あれは愛国行進曲だ、と歌声の主を見やると、そこはかつて独立義勇軍として日本の軍人とともに戦った男女が立ってゐるではないか。インドネシアは三百五十年間も、オランダの植民地として酷い搾取をされてきた気の毒な国であった。そこへ日本軍が乗り込み、オランダを蹴散らして善政を敷いた。現地人に教育を施し、また軍隊の訓練も実施した。

 日本終戦後も、約二千人の日本軍人が現地に踏み止まり、インドネシアの独立戦争を指導した。その内約半数が戦死するといふ苛烈な闘ひであったが、四年と言ふ歳月の後に、遂に独立を勝ちとったのだ。太郎は、今かうして自分がここに立ってゐるといふことの重みを、ひしひしと身に感じた。これらの国に、これらの国の安寧と繁栄に、わが日本は責任があるのだ。それは世界を平和と繁栄のうちにまとめるといふ、日本本来の大和の使命からくる、大きな「親」または「先輩」としての責任であった(大東亜戦争が始まった当初は、世界には約六十の独立国しかなかった。それがどうだらう、今ではそれが二百もあるのである。如何に日本が旧来のアジアにおける植民地の欧米宗主国を蹴散らし、その結果、日本なかりせばできなかった独立を、これらの国が享受してゐるか、について、歴史は厳然たる事実を白日の下に曝してゐるのだ)。

 太郎は、かうして全世界に対する「大和の使命」を、実感し始めたのであった。

  インドネシアの次には、太郎はインドを訪れた。インドも、イギリスの植民地として何百年もその富を搾り取られたといふ苦しい経験を持つ。第一次大戦後、ガンジーによる独立運動が起ったが、結果的にインドの独立運動を後押ししたのが大東亜戦争であった。そのインドは、日本の敗戦後、連合国の一員として極東裁判にパール判事を送ったが、このパール判事こそは判事たちの中で唯一、「日本は自衛の戦争をしたに過ぎない」と、日本の無罪を主張したのである。

 このやうに日本と浅からぬ縁のあるインドは、かつては東西両陣営からも距離をおき、今でも国境を接する中国やパキスタンとも摩擦を持ち続ける、独立路線を行く国である。太郎はインドを訪問するに当り、ガンジーが独立運動を推進する上で用いた「無抵抗の抵抗」に、特に興味を持った。

 敬虔なヒンズー教徒としてのガンジーは、ヒンズーの教へである「アヒムサー(非暴力)」を徹底的に実行した。また自分のことは自分ですると、綿花から糸を紡いだのである。それはそのまま、産業革命により紡績工場の大量生産を可能にした現代文明への批判でもあった。

 日本でも、天皇様は御自ら御田植ゑをされ、皇后様はお蚕をお飼ひになる。これらはみな象徴的行事であるが、これらの中には、現代文明が忘れかけた自然への直接的な働きかけがあるのである。かたや原爆を持つこの国インドは、またカースト制に縛られる昔風の十四億(注:2024年現在)の民を擁する国でもある。いずれ世界連邦ができた暁には、インドはどのやうな形で世界の平和と繁栄に貢献すればよいのだらうか。特に胎児の命を物のやうに平気で切り捨てる人工妊娠中絶を防ぐ上で、この生命尊重の思想は必ず大きな力を持つものとなるだらう。そのためにも、せっかく生まれた命を大切に育てる神の知恵と愛を、ぜひ日本の(かん)(ながら)の道からも,頂くお手伝いをしたいと、太郎は心から念願したことであった。(古事記に、冥土から伊弉諾(いざなぎの)(みこと)を追ひかけてきた伊弉冉(いざなみの)(みこと)が、「あなたがそんなつれないことをなさるなら、私はこれからあなたの国の人を一日に千人くびり殺します」と言ふと、伊弉諾尊は、「それなら私は一日に千五百の産屋を建てよう」と渡りあふ場面がある。常に命を増やし、育てる明るい前向きな思想が、日本神話にはあるのだ)。

 アジアの歴訪が一段落したので、今度は欧米に行くことになった。アメリカでの最初の場所を、太郎はマサチューセッツ州のプリムスに選んだ。ここは最初の移民が、メイフラワー号で到着した港である。「最初の移民は、どんな気持ちでこの新大陸にやってきたのだらう」と太郎は考へた。港に佇み、潮風に吹かれてゐると、そこへ見知らぬ男がやってきて声をかけた。

「何を考へてをられるんですか」

「実は最初の移民が何を思ってゐたかを、考へてゐたんですよ」

「私はその移民の子孫ですが、私の祖先はこの新大陸へ来て、旧大陸のやうに宗教的に束縛されない自由な国を作りたいと思ってゐたわけなんです」

「でも、『恐れるものはみな来る』といふことわざがありますね。『束縛されない』とそれを意識すると、結局それに縛られることになりませんか」

「なるほど、自由を追ひ求めても、それが結局不自由になるといふことですか」

「今、アメリカは世界で最も豊かで、また強い国になりました。アメリカが、神を否定し、人の善意に対して悪意で報ひるやうな共産主義や、余りにも神を自分の都合の良いやうに曲解し、残酷な暴力に走るテロリズムに対して、一貫して戦ってこられたことには大いに敬意と感謝を表します。しかし一方では、アメリカの言ふ自由、アメリカの言ふ繁栄を、世界に押し付けるやうなところもあります。本当の自由と言ふのは、人がそれぞれ神と素直にあへるところにあるのです。アメリカがその本来の自由を取り戻したとき、旧大陸から来たあなたのご先祖も、浮かばれるのではないでせうか」

 

「例へば、地球温暖化の問題ですが、アメリカは京都議定書での炭酸ガス排出規制の約束を、『アメリカの貧困解決が優先する』との理由で蹴ってしまひました。これを見ても、アメリカは世界全体に責任を取ると言ひながら、結局は自分の国だけしか見てゐないことが判ります」

「それは、国と言ふ単位で考へるには、大きすぎる問題なのではないでせうか」

「いいえ、さうではありません。政策を決定しそれを実行するのは、飽くまでも国です。そして、国の手に負へなくなったとみる時には、国よりも更に大きなもの、つまり世界連邦のやうなものが必要になるのです。各国が、世界連邦的発想を持つ程に利己心を離れ、愛他的になってこそ、初めて環境問題といふ地球(グローバル)規模の問題(イシュー)に対処できるのです」

「今日は大変良いお話を伺ひました。ところであなたはどなたですか」

「私はありありてあるものです。日本に生まれたので、日本太郎と名乗ってゐますが、アメリカに生まれたらアンクル・サム、またイギリスに生まれたらジョン・ブルとも呼ばれる者です」

「つまりその国の守り神のやうなお方ですか」

「さうです、国の命のやうなものです。国には国のいのちがある、そのいのちを失はぬまま、世界の国々は兄弟として連邦を作ることが、全体の平和と繁栄のために必要なことなのです」

「アメリカはもともと、神の子としての人間が、その正しい活動の場として作った国でした。しかし今は必ずしもその通りではなく、自分の国のことを最優先にするやうな利己主義もあります。今日のあなたのお話は、アメリカを本来の素晴らしい国にする上で、大変貴重なことを私に教へてくれました。深く感謝いたします」

 かうして日本太郎は、その見知らぬアメリカ人と別れた。プリムス港には、はや夕闇が迫ってゐた。

 

 太郎が次に訪れたのは、アメリカと同じ人種の坩堝(るつぼ)、ブラジルであった。もともと南米大陸はスペインとポルトガルが山分けにすることを、当時のローマ法王が取り仕切って決めた。ブラジルをポルトガルが、そして残りの国を全部スペインが取った。それでブラジルではポルトガル語が、残りの国々ではスペイン語が話されてゐるのである。

 南米大陸にも、勿論先住民が住んでゐた。例へばインカ帝国である。太古の昔から幸せに暮らしてゐたインカの人々は、ある日突然やってきたスペインのピサロ一行に、ひとたまりもなく征服されてしまった。その他の原住民も、多かれ少なかれ、被征服民族としての辛い過去を持ってゐる。太郎は、それらの人々のことが気になって仕方がなかった。といふのも、もともと日本民族の一部が北上してアイヌになり、さらに千島・アリューシャンを北上してエスキモーになり、またさらに東に行ってインディアンになった。そのうちのある者はさらに南下してメキシコに行き、とうとう南米のインカまで行った。つまり南米の原住民は日本人の親戚なのであり、顔も良く似てゐる。

 

 太郎は、アマゾンの奥地に住んでゐる原住民を訪ねた。言葉も原住民の言葉にポルトガル語が混じってゐたりして、なかなか判り難いが、なんとか話してみた。

「あなたのご先祖は昔からここにお住まひだったのですか」

「はい、太陽が東から出てから、ずっとここにゐます」

「私は日本からきましたが、日本も『日が出る国』の意味です」

「それでは私のお爺さんの、そのまたお爺さんの、ずっと前のお爺さんの頃ですね」

「さうです。あなたはどうやって生計を立ててをられるのですか」

「畑を作ったり、動物や魚を取って暮らしてゐます」

「生活は如何ですか」

「あまり贅沢はしないので、特に苦しくはありません。いつも神様にお礼を言ひながら、暮らしてゐます」

「そのことは、これからも大切なことですね。文明に浸ってゐる人は、余りにも自然を台無しにしてきました。日本も元は『豊葦原の瑞穂の国』と呼ばれてゐて、豊かなお米づくりの国なのですが、最近はかなり自然が荒れてしまひました」

「文明の人達は、これでいいといふことが判らないやうです。それと、お互ひに仲が悪くて喧嘩することもあるやうですね。わたしたちは、わたしたちを養ってくれる畑や動物、魚と、同じ家族なのです。その中の神様と、わたしたちはいつも一緒にゐるのです」

「それと同じいのちがブラジルのいのちであり、また日本のいのちでもあるのです。そしてみんながお互ひにいのちの大切さにめざめ、それを尊重する気持ちになって、はじめて世界に平和が訪れるのです」

 

 ブラジルは世界から移民を受け入れる国であり、日本からも沢山の人が移住してゐる。その中の殆どの人は、昔からの良き「日本精神」を持ち続け、日本にゐる日本人よりも、はるかに日本的な人がゐることも事実である。戦後の日本が占領政策により、随分をかしくなってしまったが、日本の神様はさうなることを見越して、予め一部の人達をブラジルに避難させてゐた。そしていよいよ日本が危なく    、をかしくなったときには、また彼らを出稼ぎの形で日本に呼びよせ、本当の日本のあるべき姿を日本人に教へさせることを実行されたのである。太郎のブラジルにおける次の使命は、それらの日系人に会ってお礼を言ふと同時に、今後についてもよくお願ひすることであった。

「永年の移民生活、まことにご苦労様でありました」

「ありがたうございます。わたしたちはいつも、日本人としての誇りを失はないやうに頑張ってきました」

「あなたがたは、日本のいのちをブラジルに吹き込んで、この地を明るくしてこられました。それは日本人として、とても素晴らしいことだと思ひます」

「恐れ入ります。わたしたちは、大和魂こそは世界に誇るべき宝だと思ってをります」

「その宝は、このブラジルにおいて温存されてきました。これからは、それを世界の各地に拡げていくことが大切だと思ひます」

「はい、ブラジルには、世界各地から移民がきてをりますが、日本精神は彼らの母国にも、それぞれの言葉に翻訳して、伝へてもよいものです」

「教育勅語に、『之ヲ古今ニ通ジテ(あやま)ラズ之ヲ中外ニ施シテ(もと)ラズ』とありますが、まさにその通りで、これからはあなた方が主役になって、日本精神の世界への普及に、ぜひとも努めて下さい。日本精神とは、良い意味での世界精神なのですから」

 

 日本太郎の世界歴訪の旅も、後は欧州と中近東、アフリカを残すのみとなった。世界を廻れば廻るほど、日本のいのちが世界中で必要とされてゐることをしみじみと感ずるのである。

 

 欧州では、ギリシャとドイツを訪れることにした。前者はラテン文明の発祥の地であり、後者はゲルマン魂の故郷である。太郎がアクロポリスの丘の上に立ったとき、空はあくまでも青く高く、空気はカラリと乾いてゐた。「ギリシャの神々は、今どこに行かれたのだらう」と太郎は考へた。周りを見まはしても、みやげものを売ってゐる店があるだけで、数人の観光客が冷やかし気味に見てゐる。なにげなくその客と店番の会話を聞くともなく聞いてゐると、こんなことを言ってゐた。

 客一「この絵葉書は色が余り良くないね。もうちょっと負けろよ」

 店番「昔から同じ色ですよ。他の店でも同じです。他の店に行ってもいいよ」

 客二「この貝殻細工のコンパクト、三個買うから一個ただにしてよ」

 店番「お客さん、私は昔からずっとここで商売してゐるけど、もうけの半分は神様に差し上げてるんだ。といふことは、お客さんも神様に差し上げてるってこってすよ。だから値切ったりしないで下さい」

客達「それもさうだね。判った。言ひ値どほりで買ふよ。これで神殿に御賽銭あげなくてもいい。一石二鳥だね」

これを聞きながら太郎は思った。

「なるほど、これが西洋の合理主義か。ここにギリシャの神様が生きてをられるのかもしれない。しかしちょっと潤ひがないやうな気もするなあ」

 

 次に太郎はドイツの片田舎に立ってゐた。遠くの教会から讃美歌の声が聞えてくる。

「主よ、吾らを守りませ」と繰り返し歌ってゐる。

「主とは神様のことだらう。しかし主はいつも吾らを守って下さるので、特にお願ひしなくてもそれは変らないのじゃあないのかな」

 単純な疑問を持った太郎は、その教会のドアを開けた。中では若い牧師が、一所懸命に説教をしてゐた。

「これはよくいらっしゃいました。日本の紳士のお方、どうぞお入り下さい」

 愛想良く迎へられて、太郎は最前列に腰を下ろした。

 「ところで」と太郎は切り出した。「さきほど、『主よ、吾らを守りませ』と歌っていらっしゃいましたが、主は誰でもわけへだてなくお守り下さるのではないのですか」

「勿論さうですが、しかし『主よ』と呼びかけた人には、特に反応されるのです」

「さうですか、私は、人間はみな主の子供ですから、主からみれば子供はみなかわいいので、平等に愛して下さると思ふのです。その『愛して下さる』ことに対して心から感謝すれば良いのではないでせうか。ところであなたは、キリスト教がまだドイツに来る前にあった、ドイツの神話についてご存知ですか。私はとてもそれについて興味を持ってゐるのです」

「ああ、あなたは大変良い趣味をお持ちですね。勿論知ってゐますとも。では礼拝が終ったあとで、ゆっくりお話しいたしませう」

 

 礼拝後に牧師が語ってくれたドイツの神話は、太郎にとって大変興味深いものだった。特に龍を退治するジークフリートの話などは、ドイツ人の口から聞くと、また大きな迫力に満たされてゐた。太郎はドイツ人の民族性について質問してみた。

「ゲルマン民族のエネルギーは、このやうな神話から受けついでゐるのではないでせうか」

「それはさうだと思ひます」

「しかし一神教たるキリスト教がそれらの神話を破壊してしまったのは残念ですね」

「破壊したといふより、それだけキリスト教の魅力が大きかったのだと思ひます」

「日本にも神話がありますが、戦後かなり迫害を受けました。しかし日本では、キリスト教は人口の一パーセントくらいで、あまり普及はしてゐないのです」

「それは驚きですね。日本の神話はそんなに素晴らしいものなのですか」

「多分、日本人の潜在意識の中にその神話の世界があって、それで十分満足してゐるので、あへて外来の宗教を信仰する必要性を感じないのではないかと思ひます。特に、日本の精神的な中心は天皇様なのですが、その天皇様は神話の世界からの直系の子孫だと昔から信じられてきました。この『信じられてきた』といふことは、大変重要な意味を持つものなのです」

「日本は世界でも有数の工業技術を誇る国ですが、それと神話が両立することは、まさに驚きですね」

「神話といへども、かなり内容は科学的なのです。 古事記に書いてあることは、今でも通用するやうな、「かうすればかうなる」式の預言なのです。また、日本人は先祖をとても敬ひます。亡くなった先祖は霊界で生きてをられるので、祝詞やお経を()げて、真理の供養をすると、とても喜ばれるのですよ。ですからご先祖様はいつも私たちの心の中に生きてをられる。私たち日本民族の中では、生きてゐる者と亡くなった者とが常に共存してゐるのです」

「なるほど、それで日本人は強いのですね。私も一度、日本の神話を勉強してみたくなりました」

 

 ドイツの牧師に別れを告げた日本太郎は、次にはエルサレムの嘆きの壁の前にゐた。ここは、イスラム教徒とユダヤ教徒が、第二次世界大戦後のイスラエルの建国以来、血で血を洗ふ争ひを繰り広げてきたところである。「神の愛とはなんだらう、宗教の赦しとはなんだらう」と、太郎が思ひに耽ってゐると、どこからともなく慈愛に満ちた深い声が聞こえてきた。

「太郎さん、あなたの疑問にお答へしませう」

「あなたはどなたですか」

「あなたと同じ、ありありて、あるものです。今はイエスとして現れてゐます」

「それでは伺ひますが、神の愛とは民族に関係なく与へられるものでせうか」

「その通りです。神は誰をも等しく愛してゐます」

「では、宗教の違ひで人が憎み合ひ、殺し合ふことはどうして起るのでせうか」

「それは、人が普遍的な神の愛を理解せず、枝葉末節にとらはれて、お互ひを兄弟ではなく、敵と視るからです」

「その愚かな行ひを、やめさせることはできないでせうか」

「それはただひとつ、人間がお互ひを『神』だと認めることによって可能です」

「たしかに、神の子は神ですから、本質的に人はみな神ですね」

「人はまだ、自分を神だとは信じ切ってゐないのです。お互ひに神だと判れば、神として尊重し合ふことができるのですが。ただし人が自分の力でそこまで悟らなければいけません。それにはまだ長い年月と大きな努力が必要とされるかもしれません」

「神とは何かが判らない人には、『神とはあなた自身のことだ』と教へてあげればいいのですが、なまじ神のことを知ってゐる人は、自分と神とは違ふものだといふ既成概念があるため、却って中々判ってもらえないことがありますね」

「あなたは日本から来られたので申し上げますが、日本人は元々、『自分が神だ』と悟りやすい民族だと思ふのです。どうか日本でもキリスト教の神と日本の神々とは、本来同じものであり、矛盾しないものであることを、皆さんに知って頂きたいのです」

「おっしゃることはよくわかります。神は愛でありますが、日本の神も、例へば天照大神は全てを愛の光で照らし命を与へる神様です。また神は法則としての一面を持ってゐますが、日本の天之御中主神は、万物の存在を、中心者への帰一によってあらしめてをられるのです。このことはエホバ神への帰一と同じことであり、またエホバ神はエロヒムの神とも言はれ、アラーの神と、もともとは同じ神であることを意味してゐます。本来、『アラー』といふのは『神』を表すアラビア語の一般名詞であり、イスラム教だけの神といふ固有名詞ではないのです。これらのことは、世界中の人が本当の神を知る上でも、大変大切なことだと思ひます。今後私達日本人は、世界の人々に本当の真理を大いにお伝へさせて頂きます」

「ぜひよろしくお願ひします。日本民族が世界連邦の中心となることは、大昔から約束されてゐたことなのです」

 

 日本太郎の世界の旅は、終りに近づいてゐた。エルサレムからひとっ飛び、太郎はアフリカの奥地、タンザニアの人類のDNAが三人の人から始まったといふ地点にゐた。太郎の疑問は、誰が最初のDNAを作ったか、といふことだった。太郎が瞑想に耽ってゐると、その最初の三人が頭に浮んできた。

「DNAは、おいらの心で作ったものさ」と一人が言った。

「DNAは、私の言葉で作ったものよ」ともう一人が言った。

「DNAなんて、もともとはないものさ」と、三人目が言った。

 

もともとはないもの、しかし心や言葉で作れるもの・・・

それは一体なんだらう。

太郎はふと、新約聖書にあるヨハネ伝(福音書)の、冒頭の言葉を思ひだした。

「・・・はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき。よろずのものこれによりてなり、なりたるものこれによらでなりたるはなし。これにいのちあり」

 なるほど、この世界は、本当は「無」なんだ。ホーキング博士も、宇宙はビッグバン(大爆発)によってできたが、それにより始まった「時」は、虚数でしか表せないと言ってゐる。虚数とは、二乗してマイナスになるといふ、現実界には存在し得ない数学理論上の概念であり、それでしか表現できないといふことは、存在の根源が「虚無」である、つまり物質は無い(色即是空)といふことになる。

 しかしさうは言っても、ビッグバンで宇宙は無から無限に増殖して爆発的に拡がり、その拡がりは現在も続いてゐるやうに見える。「見える」と言って、敢へて「拡がってゐる」と言はないのは、それを観測する五感や六感が、本当は不確かなものだからだ。かくて、全ての存在は、より高い次元から投射された映像にすぎないといふことが推論される。DNAについても、その一環であり、本当はないものなのだらう。しかし、神とも呼ぶべき高い次元からこの現象世界に投射された映像は、人の心のレンズをとおして、その心のままに現れるので、良いDNAも、悪いDNAも、心の持ち方ひとつで、決まるといふことになる。つまり、人間の基本のやうに思はれてゐるDNAでさへも、「物質はない。しかしそれは人の心によって現れ方が決まる」といふ考へ方からのがれることはできないのだ。

 

 ここまで考へとき、太郎の脳裏に浮かんだ三人は、嬉しさうに微笑みを浮かべてゐた。

「どんなことがあっても、おれたちの子孫は仲良くやって欲しいな」と一人が言った。

「私たちのいのちは、あんたがたの中に生きてゐるんだからね」と二人目が言った。

「神の子のDNAは、神のDNAと同じだよ」と三人目が言った。

 

 人類最初の先祖に会って、そのいのちが間違ひなくいまの人類に伝へられてゐるのを見た太郎は満足して帰途についた。この世界旅行で、太郎は将来なすべき世界連邦建設の足がかりができたと、親に成績を報告する子供のやうに、胸が弾むのを感じた。

 

頌詩 すめらみことのやまとのおはたらき

 

 この世はあるのかないのか

 実はあると思ってゐるだけ

 でもそれが大切なこと

 

 人は別々だが

 本当は自他一体

 それが判れば腹も立たない

 人が幸せなら自分も幸せ

 

 コトバが通じるといふことは

 心が一つになってゐること

 コトバが通じないのは

 心がまだ一つでないから

 

 神とはなにか

 神とはあなたのこと

 神に会ひたいなら

 本当のあなた自身に会ひなさい

 

人類が地球上に誕生してから四百万年

一代三十年として十三万三千三百三十三代

その間の親は何人か

 

 (たった三十代で四十億人)

 民族は遠い親戚だから、みんな顔が似てゐる

 その記憶をみんな受け継いでゐる

 

 天皇様とは

 光の化身、天照大神の

 みこころを受け継がれてゐる

 直系の御子孫であらせられ

 

 天の王(王者の中の王者)

 統()べらみこと

 すめらみこと

 無私の中心

 万物生成の源

 そして神はあなた

 

 心の中にをられる天皇様

 中心者にハイと帰一すれば

 そこがそのまま極楽浄土

 父を拝まん母を拝まん

 

 日本以外の国は

 世界とは自分達の延長だと思ってゐる

 日本だけは

 世界は自分以外の世界だと思ってゐる

 

 日本がさう思ふのには

 それだけの理由がある

 日本は他国との利害競争に明け暮れることなく

 結局は世界を調和にもって行く

 それが日本の国是なのだ

 

 大東亜戦争で日本が負けたのも

 もし勝ってゐれば

 戦勝国として(おご)(たか)ぶり

 謙虚に調和を持ち来たらす

 使命を全うできなかっただらう

 

 負けたといふことは悲しく悔しいけれども

 日本が本当に自分の我を捨てて

 世界のために奉仕するのに

 この体験は必要だったのだ

 

 それは単にアジア・アフリカの欧米植民地に

 独立の気概を持たせただけではなく

大和(やまと)(大調和)の国号でかつて呼ばれたやうに

「沢山のものをひとつにまとめる」

 崇高な理念が

 世界をまとめる原動力として

 日本に与へられてゐる

 

 その理念で世界中を

 平和と繁栄にまとめる

 そのためにこそ

 本当の「大和魂」が発揮される

 その時が必ず

 必ず来るのだ

 

 大和の理念で

 世界をまとめるその根本には

 絶対無私の天皇様が

 統べての国の統べての民の

 

 痛い心を、悲しい心を

 観世音菩薩のやうに

 おん自らの御心に優しく汲み取られて

 

 真珠貝が

 どんな異物をも包みこんで

 美しい真珠に化するやうに

 いつくしみ、いたはられて

 なぐさめ、励まされることを

 いつもなされるのだ

 

 天皇陛下は勿論

 日本の天皇様であらせられるが

 天皇様のみこころは

 常に世界の国人の上に

 その安寧の上にあるのだ

 

 絶対無私の御存在は

 必然的に世界の中心者として

 世界の大調和といふ天業を

恢弘(かいこう)されるのだ

 

 お互ひに数千年来の

 確執のとりことなり

 報復が報復を呼ぶ紛争地にあって

 双方をなだめるのは

 並大抵のことでは

 できる筈はない

 

 そこにこそ絶対無私の

 最も高貴なる御存在が

 どうしても不可欠なのだ

 

 日本民族は

 その天皇様のお手伝ひを

 ひたすら粛々と行ひ

 世界への奉仕を

 ひたすら我が喜びとするのだ

 

 その崇高な理想を

 実現に導かうとする

 日本の国と民が

 素晴らしく繁栄しないといふことは

 絶対にありえない

 

 「与へよ、さらば与へられん」の黄金律は

 永遠に真理の輝きを失はないだらう

 

 この聖業に手を染めた日本民族は

 永く歴史にその名を留めるだらう

 

 

 

 

 

大和(だいわ)(くに)神示(しんじ)

われ(ふたた)大日本(だいにっぽん)天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)天皇(すめらみこと)()意味(いみ)について(かた)らん。

天孫(てんそん)降臨(こうりん)()ふことは(てん)(ちち)のみこゝろが天下(あまくだ)って、(あめ)(した)ことごとくが(ひと)つの(ひかり)世界(せかい)になり、大和(だいわ)平和(へいわ)世界(せかい)があらはれると

()意味(いみ)象徴的(しやうちようてき)表現(へうげん)である。日本(にっぽん)民族(みんぞく)

世界(せかい)(をさ)めるのではなく、『天孫(てんそん)』すなはち『(ちち)のみこゝろ』が全世界(ぜんせかい)(をさ)める時期(じき)(いた)ることである。それがイエスの『(しゅ)(いの)り』にある御心(みこころ)(すで)()世界(せかい)意味(いみ)である。それが(まこと)大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)である。大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)()ふことを(せま)意味(いみ)(かい)して、日本(にっぽん)民族(みんぞく)(くに)だなどと(かん)へるから誤解(まちがひ)(しゃう)ずるのである。そんなものは小日本(せうにっぽん)であり、本當(ほんたう)大日本國(ひかりのくに)ではない。(あめ)(した)ことごとくが『(てん)のみこころで()ちひろがる世界(せかい)()ることを、「全世界(ぜんせかい)五大(ごだい)(しゅう)国土(こくど)を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還(ごほうくわん)(まう)すべき時期(じき)()る」と(をし)へたのである。天孫(てんそん)とは肉體(にくたい)のことではない。「肉體(にくたい)」は()いといふことをあれほど(をし)へてあるのに、やはり肉體(にくたい)のことだと(おも)って(しう)(ちやく)(つよ)いから(だい)それた間違(まちがひ)をして取返(とりかへ)しがつかぬことになるのである。(かみ)からみればすべての人間(にんげん)(かみ)()であるから、(とく)日本(にっぽん)民族(みんぞく)のみを(あい)すると()ふことはない。あまり自惚(うぬぼ)れるから()(ちが)ふのである。大日本(だいにっぽん)天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)スメラミコトとは固有(こゆう)名詞(めいし)ではない。()(ねん)表現(へうげん)である。「大日本(だいにっぽん)」すなはち「ひかりあまねき」、「天津(あまつ)」すなはち「(てん)(ちち)の」、「()(つぎ)」すなはち「天降(あも)りましたる帝王(ていわう)」といふ意味(いみ)であるから、(そう)じて(やく)せば「ひかりあまねき(てん)(ちち)のみこゝろを()ぎたまへる天降(あも)りましたる帝王(ていわう)」と()ふことである。(てん)(ちち)のみこゝろが全世界(ぜんせかい)(くわう)()してあまねく(へい)()になる()(かい)になれば、それが本當(ほんたう)(だい)()(くに)である。それが(ほん)(たう)(だい)日本(にっぽん)天津(あまつ)()(つぎ)すめらみことの(しろ)しめし(たま)()(かい)である。肉體(にくたい)のことではない。(昭和21年1月6日朝の啓示による)

 

上記の『大和の國の神示』についての注解

 

(1) 本文は、谷口雅春先生のご著作である。

(2) 本文は、株式会社日本教文社より発行された、新編聖光録からの引用である。

(3) 私の考へる「光あまねき世界のくに」とは、聖経甘露の法雨にも示されてゐる通り、

「神が一切のものを造り給ふや

 粘土を用ひ給はず

 木材を用ひ給はず

 ノミを用ひ給はず

 如何なる道具も材料も用ひ給はず

 ただ『心』をもって造り給ふ

『心』はすべての造り主

『心』は宇宙に満つる実質

『心』こそ『全能』の神にして遍在し給ふ。」

即ち、神とは心であり、心はこの宇宙に充満してゐるのであるから、其処は光明燦然と輝く世界の国である。

日本人が海外に移民して、ブラジルなどで大変尊敬されるのは、そこにアマテラスオホミカミの末裔として、神が臨在することが、地元の人々にも分かるからであり、其処に神の子としての日本人の実相が顕れるのである。

 

(続く)