子供時代から病気がちだったり、入院経験が多かったり、余命宣告すら何回も有るからかも知れませんけれど。

寿命は〝寿〟〝命〟と書くように、〝たまたまもらったラッキーな時間〟ですから、それのために闘う類いのものではないから、というのが最終的な結論なのではないかと感じています。
ただ、医学や思いやりが、人が死なないために努力したり努力する事は尊いと感じていますから、自分を看ている家族(居ると仮定して)にそれを見せたくないというのは〝理由〟には感じられません。

だって、それすら主観的(利己的)なほど、人は一人で人と関わりながら、一人で生きているんですもの。
すなおに〝自分が痛くなければ、もう少し頑張って生きてみてもいいな〟と、皆な言っちゃってもいいな〜と思います。

同じ病室にポータブルトイレを使うオバアチャンがいらして、おそらく私よりずっとスゴいのを生み(?)落としたらしくスンゴイカオリでしたが、生きてるっていいなぁと思いました。
世話をする方々も偉いし、自分が苦しむ姿を見せたくない より、苦しみたくないための努力を何百年もやってきた人類を、私は好きです。

杖なしで歩きたいし、手の指もつりたくないし、味覚も味わいたいし、色々な事がしたいですが、(悪くなってきたものの)耳も目も鼻も使える今の私を、私は居てヨカッタと思います。

他の動植物は〝生きることで(滅びるも含む)〟尊厳を表現出来ているのに、頭でっかちな人類は、ついつい贅沢になってしまうんですよねぇ。

何が言いたいのか分からん文面になりましたが、〝身内でもないのに「闘うな」とか「戦え」とか「尊厳死」とか、簡単に云うものじゃないわよという感じの事です(本人の意思が一番大事かと)。

たぶん。