この物語はフィクションです。

 

ピアスは再び この地にやってきていた。訪れたい訪れたいと思いながら、一年半が経ってしまった。あまりに立て続いた人生の出来事と心の整理に機会が追いつかなかったのだ。レンタカーを借り、あの海岸線を走っている。助手席にベビーシートを装着し息子がスヤスヤと眠っている。

 

昨日、嘗てのモヒカンの自宅に立ち寄った。ほぼ、自分の知る以前の佇まいのまま家周りに草が茫々としていた。次の居住者は決まっていないようだ。共同駐車場には、あの古い軽自動車が そのまま放置されていた。それを目にすれば、自分なりに全ての出来事を受け入れたつもりでいたものの、込み上げてくるものがあった。

 

その後、岬にも顔を出した。バンドのメンバーなどとも会えて、一通りの話をすることもできた。しかし皆、事情が事情だけに、どの会話も末尾には言葉にならない沈黙が引っ付いてきた。だが、

 

「彼の子なの」

 

と息子を紹介した際には、皆一様に口許に笑みを浮かべた。

 

そこでモトコの近況も耳にした。モヒカンとは似ても似つかぬ今の旦那と他所の地で暮らしているのだという。彼女が、自死する少し前のモヒカンから酷い暴力を受けたという話は聞いていた。きっと自分よりモヒカンのことを深く知っていたはずの彼女を思う時、今はもう恋敵だとかいうのではなく、ただ彼女が過去の心の傷を背負うことなく、幸せになって欲しいと心から思う。

 

シングルマザーになってからも、東京の仕事は まずまず順調だ。しかし仕事と育児の両立は想像以上に厳しいものがある。今は親や兄妹を頼り、何とか やり過ごしている。

 

車窓から海を眺める。すると眠っていた息子が目を覚まし、ぐずり始めた。ピアスは路肩に車を停め彼を抱える。しかし息子は泣き止まず、更に声を張り上げる。時々、こうなると息子は手に負えなくなる。ふと もし今、この息子が立ち上がり、自分を殴り始めたら どうしようかと思った。(バカな)と思い直し、彼を抱き抱えたまま車の外に出る。すぐそこに海がある。

 

「あなたのパパの海よ」

 

と、あやしてみたが一向に納得する様子がない。他に人の気配も無い、ごつごつとした岩が剥き出しになった海辺、まさに支配不可能なものとして君臨する自然、海。息子はそれに抵抗しているようにも見えた。喉が潰れるほどに息子の声が上ずる。何故だかピアスまで貰い涙が溢れてきた。モヒカンから この子へと受け継がれた人生を垣間見た気がしたのだ。彼のあの左肩の蜘蛛のタトゥーが息遣いに合わせ蠢くのが思い出された。何故に この海は これほどに悲しく美しいのかと思った。

 

「海が私を悲しくさせる」終