この物語はフィクションです。

 

ピアスの滞在から半月ほどの間、モヒカンの日常に特に変調はなかった。突如として軌道が逸れることになったのは長年、地元で彼をを支えてきたモトコからの別れ話だった。縁談が決まったので これからは もう関係を絶ちたいとのことだった。

 

モトコとモヒカンは高校時代の同級生である。関係は それから二十年続いてきた。男女の仲でもあったが、それよりはモトコのモヒカンに対する、周囲からすれば、信じられないほどの善意、厚情により成立していた家族のような関係性だった。古くからモヒカンを知る者は皆、モトコの支えがなければ、モヒカンなど早々と この世から消えていだだろうと口を揃える。その日、自宅にやってきたモトコの表情には それまでとは違ったものが感じ取れた。

 

「どこの男や?どんな奴や?」

 

「何で私が それに答えなあかんの?」

 

「そりゃ俺らも これだけ長い付き合いをしてきたんや、俺にも お前の これからのことを聞く権利はある」

 

「それを聞いて、あんたは 何がしたいの?何が出来るの?」

 

モトコには、田舎町の ならず者として、一部の若者たちからはカリスマ視もされるモヒカンが、そのイメージから離れた、一人の ただ情けなく、自分の尻も拭けない様な男に過ぎないことが分かりすぎるほど分かっている。実は今回、モトコがモヒカンに明確な別れ話をしておくべきと家にやってきたのは二週間前だった。その日、噂は耳にしていた東京の女と一緒の彼を見た。二十年越しの彼との付き合いの中で その様な経験は一度や二度ではなかった。特に何を感じることもなかったが、やはりもう自分は自分の人生を生きるべきだと再認識し今日、出直してきたのだ。しかし思えば、少なくとも、数年前、ご両親が亡くなるまでの彼は、これほど惨めな男ではなかった。彼を この様に変えてしまった不幸には言葉もない。

 

「…ごめんね、少し言いすぎたかも知れん。相手の人は普通の勤め人よ」

 

モヒカンは舌打ちをして、視線をモトコから離すと、自宅部屋の窓から外を見た。雨が降っている。

 

「私も ずっと寂しかったんよ……もう三十よ」

 

「俺だって、お前のことは ずっと心に思ってきた。いつか自分に生活の目処がついたら、一緒になりたいと……」

 

「ごめんね、私には その言葉を信じるだけの心が もう残ってないの……決めてしまったことなんよ。この家に来て、ご飯作ったり掃除したり洗濯したりするのは 今日で最後」

 

「何とか 思い直してくれへんか?」

 

モヒカンとて男として、首輪振り部屋を出て行こうとしたモトコの後ろ姿を、ただ見送りたいと思った。ひとこと、これまでの日々に感謝の言葉でも掛けたいと。今まで自分と関わった数々の女との別れの時、自分は いつも そうしてきた。当たり前の対応だ。人の心は どうにもならない。しかし この刹那に、彼の精神は それまで保ってきた最低の一線を遂に保てなくなってしまった。気がつけば、モヒカンはモトコを、ちょうど思春期の頃、母に そうしていた様に殴っていた。それも一回や二回でなく悲鳴をあげ抵抗しようとする彼女を制し、何度も殴り蹴るを繰り返した。そうしている最中のモヒカンには、モトコが、これまで自分を支えてくれた感謝すべき女…どころか一人の人間であるとすら理解できず、ただ自分を裏切り、立ち去ろうとする肉の塊としか見えていないのだった。自分は女という、自分を侵食する邪悪な獣、肉と血の塊を捌いているというつもりだった。思えば長い間ずっと自分は こうした自分の中にある叫びを解放出来ずにいた。女は常に自分の周りにいた。家族を失い、社会に弾かれ、誰一人 自分の心の叫びに耳を傾けようとしなくなっても、女は いつも自分を包み込んでくれた。しかし それは偽りだった。このままモトコを殴り続けたらモトコは死ぬだろう。しかし人の生き死になど大きな問題ではない。ただ肉体の脈が途絶え、脳が停止し、呼吸をしなくなるだけのことだ。

 

その後、数十分と覚しき間の記憶がモヒカンには無かった。ただ長い間ずっと彼を苛んできた、あの思春期の頃、母を殴っていた自分の映像と、現実の境界線がなくなり、モトコを殴っていたという自覚しかない。正気に戻った時、部屋にモトコの姿はなかった。部屋はひどく荒れていた。モトコの姿が此処に無いということは、何とかして自分の折檻から彼女が逃れたということだ。モトコは自分に殺されずに済んだのだ。しかしもうモヒカンは自分という存在が、これまでとは別物であることを悟った。すると何故か涙がとめどなく溢れてきた。ただ幼子の様に、一人 部屋で泣き続けた。

 

一時間ほどして、警官が家にやってきた。過去に何度か違法薬物などの件で面識のある警官だった。事情聴取は長々と行われたが、モヒカンに語ることはなかった。終始、監査官の言うことに頷き、下を向いてやり過ごした。数日後にモトコに示談で済ませる意思があることを伝えられた。二度と彼女に関わろうとしないことを約束し、モヒカンは元の生活に戻ることを許された。

 

その数日間の出来事を周囲のものは皆、知っていた。離れた地に暮らすピアスからも何度か電話があったが、受話器を取る気にはなれなかった。

 

 

つづく。