天明7年(1787)田沼意次が隠居と蟄居を命じられて田沼時代は終わる。田沼意次が蝦夷地探索を行っていたことから近江商人と蝦夷地について記してきたが、あとの歴史を考えると田沼意次が蝦夷地に調査隊を派遣したことは奇跡だったとも言える。歴史に「もし」を語ることは許されないが、もし田沼意次が蝦夷地に目を向けなかったら現在の北海道は江戸時代のうちにロシアに占領されていた可能性もあると考えられるのだ。

 寛政5年(1793)松平定信が失脚した直後にロシアは保護した日本人・大黒屋光太夫らを連れて根室に来航し交易を求めた。このときにロシアに対応したのは幕府であり、幕府はロシアに長崎への入港を許可する書面を与えている。十年後、ロシアはこの書面をレザーノフに持たせて長崎に入港するが、長崎奉行・遠山景晋(江戸町奉行・遠山景元の父)によって通称は拒否される。レザーノフはこれに怒りロシアへの帰還途中に樺太や利尻島を攻撃。放火や略奪も行っている。また蝦夷地で商売を行っていた高田屋嘉兵衛がロシア船に拉致される事件も起こっている。これらは日本とロシアの国家間の問題であり、松前藩程度の規模では対応できないのである。
 しかし、江戸時代は地方自治が認められた時代であり幕府といえども簡単に松前藩の意見を無視して外交が行えるわけではない。実際に大黒屋光太夫が帰国したときに現場で動いたのは松前藩士であった。この為に幕府は強硬手段に出る。寛政11年(1799)、幕府は七年間の期限を付けて東蝦夷を上知(召上げ)。七年後に返還は行われなかったばかりか前藩主である松前廣道の放蕩を理由に西蝦夷も取り上げられて陸奥国伊達郡梁川に九千石の所領を与えられて転封となった。こうして蝦夷地は天領となり、田沼時代には実質的に十万石以上の収入があった松前藩にとっては取り潰しに等しい処罰とあったのである。
 この頃がロシアと幕府の争いの時期であり、幕府が対露政策を自由に行えた理由でもあった。

 こののち松前藩は蝦夷地に戻るための工作を行うようになる。特に松前廣道の弟で「蠣崎波響」の雅号で知られ光格天皇も天覧されたことで名声を得た松前廣年の作品が重要な資金源にもなって行く。
 金が動けば商人も動く。松前藩が蝦夷地を治めていた頃に繋がりがあった近江商人たちも松前藩の蝦夷地復帰に尽力するようになる。この中で目覚ましい活躍をするのは天領となった蝦夷地に進出していた藤野喜兵衛であったことは不思議であるが、文政4年(1821)蝦夷地は松前藩に返還され、翌年に藤野家から買い上げた船「常昌丸」に乗って藩主松前章廣がお国入りを果たす。こうして藤野家は松前藩の信頼を得るとともに、近江では井伊直弼との交流も確認されているのだ。


藤野家本宅跡(豊郷町「豊会館」令和7年休館中)