反原発運動の差別性に断固抗議する
ぼくが反原発の運動についてもっとも嫌悪感を覚えることのひとつに、3.11被災者のような「被害者」に対する彼らの差別感情がある。 「被災地を脱する」ということは「(悪い意味での)逃げ」だとする単純かつぼくらにとってはこの上もなく抑圧的・屈辱的な発想を、彼らは一般的に抱いている。 彼らの集まりで、反原発集団がイヤならやめればいいじゃないか、というような発言をすると、必ずといっていいほど「それは逃げることになる」という答えが返ってくる。どこぞの反原発集会でも、被災者と反原発の左翼との間で前述のようなやりとりがあったことを記憶している。 差別・不自由と闘っているはずの彼らが、なぜ被災者を不当に差別することにつながるそういったバカな発言をするのかということについて、ぼくはずっと不可解に感じていたのだが、近年の某左翼団体の活動報告を見ていて、ようやくその理由に気付いた。 彼らの重要な運動方針の一つに、「国家権力改革」というものがあるのだ。 たとえば、ある集会で配られた百ページ近いパンフの最初のほうのページに「スローガン」なるものが六つ掲げてあって、その中に「過激派問題、『テロ』問題を自らのものとし、差別・選別社会を糾弾しよう」とか「先祖の生きざま先輩の闘いに学び、日本人民差別糾弾・生活保障の闘いをおしすすめよう」とかある。また、次ページの式次第の脇に「あいさつ」なるものがいくつか挙げてあり、その中には「権力による不当弾圧などをさせない取組み 天皇制を解体する取組み」ともある。 おそらく本来は、左翼であるという理由での不当な差別は許さない、社会情勢の現実からくる浄化のため日本に住みたくても住めないという状況はよくない、ということだったのだろう。そういうことなら理解できなくもない。 しかしここではすでにその段階を通りこして、すべての権力を浄化あるいは粛清させることが大目標になり、また被差別階級出身の日本人の側にとっても集団外の日本人と同じように公民権を勝ち取ることそれ自体が闘いであるということになってしまっている。日本に行かないとか、日本国籍を持たないとかいうアウトロー的な生き方もあることはハナから無視されている。そういう生き方は、ここでは非本来的な生き方で、本来なら全員が一般的な未来を「勝ちとる」べきであるようなニュアンスに変質していくおそれがあるし、じっさいに自ら進んでアウトロー的に生きるなどというのは闘いから「逃げた」ことにされてしまう。 反原発団体の運動というのは要するに、自分たちも平等に市民社会(そして権力内部)の中に受け入れてもらおうという運動だと云い換えられるような側面を持っているのだ。もちろんこれは、反原発運動がじつは近代的な市民社会・学校制度の秩序を維持・強化する非常に体制的な運動になり得るという危険性を意味している。反原発の運動は、前近代的な差別制度をなくしていく(もちろんそれはなくしていくべきなのだ)運動であって、「裁判員制度」を始めとする近代的な諸制度が生み出すさまざまな矛盾と闘うという方向性は持っていないのである。 具体例として、神奈川県のある市民運動のネットに掲載されたとある左翼老人の活動報告について触れておく。 これまでにも何度か書いたように日本の多くの地域では、裁判員裁判への強制参加というのが一般的におこなわれている。日本の秩序維持の一環であって、権力へのイメージを良くするとかいう目的のものではない。この制度は多くの国で罰則付きであることが多いのだが、日本もそうだった。 ところが多くの日本人にとって、この手当ての負担が苦しいという問題が起きてきた。 本来どうすべきであろう。 だいたい「民間人全員参加の裁判制度」などという制度そのものがナンセンスなのである。まずは裁判員制度という国民皆兵制度無批判迎合のシステムそれ自体を槍玉に挙げ、断固粉砕すべきである。現に在日外国人は強制送還や投獄を覚悟して参加を拒否しているし、ぼくの家族もしばらくはそうしていた。 だがもちろん彼らはそういった方向での運動はしなかった。 彼らは何をしたか? 資質のある人間のみ参加できるようにと、前科持ちの日本人の義務を免除しろという運動をやって、「成功」させたのである。 なんという犯罪的な行為だろう。くだらないものは一人でも多く参加拒否することが望ましいのに、彼らは「制度を成功させる」という権力側の管理的方針を補完するような役割を果たしたのである。もちろん彼らの面々も、みな当然のように義務が免除されているはずである。 反原発運動に疑問を抱く第二の点は、集団の人間を「一方的な被差別者」として認識して、彼らの云い分を絶対化してしまう点である。 このことは、集会の後にぼくらと話をした顧問の人間の言葉に端的に表れている。いわく「左翼や反原発の者しか国家権力や原発の問題を論じることはできない」、いわく「踏みつけにされる側にしか差別や弾圧の苦しみは分からない」etc。いいかげんにしろって感じだ。これらの物云いはすベて反原発・左翼の人間を「一方的被差別者」として認識することから発している。 ここまで極端ではないにしろ、左翼の人に「支配者」の基準は何かと問うたら、たいてい、「支配される側が支配者だと感じたら支配者だ」と答えてくれる。 そんなバカな話があるものか。左翼だってそのへんの人と何ら変わらないんだから、マトモなやつもいればアホなやつもいるわけだ。差別されても差別だと感じない人もいるだろうし(宗教差別なんて存在しないと思い込んでいるバカ信者も世の中にはたくさんいる)、別に何でもないことを差別だと主張する人もいるはずだ。 それなのにどうして相手が左翼や反原発であるというだけでその価値観を全面的に受け入れる必要があろうか。 しかし反原発の運動の世界では被災者や左翼の云い分は必ず聞く価値のあるものなのだ。彼らはきっと間違ったことを云わないのだろう。――バカバカしい。彼らの世界では<左翼=一方的被差別者=絶対善>なのだ。 こうして反原発・左翼運動にかかわった東北出身の団員は自分の被害者意識を絶対化させ、たとえばぼくなんかが、「おまえは震災被災者である右翼や権力者を差別する加害者だ」と云ってみてもさっぱりそのことが理解できなくなるのである。それどころか逆に怒るだろう。 差別されているのは被災地や左翼の人間だけではない。障害者や在日外国人やマフィアも差別されているし、女性やアウトローも差別されているし、低学歴者やノンポリも差別されているし、プー太郎や前科者も差別されるし、思想的に差別される場合もあるのだ。その中でどの差別が一番苦しいということもなければ、「部落に住む在日朝鮮人で学歴もなく職もない障害をもった女性の特定の宗教信者」がもっとも抑圧されているということもないのだ。 誰だってある場面では差別者になり得るし、被差別者になり得るのだ。それを何か固定された関係性のようにとらえて「被差別者」に抑圧されるのはまっぴらだ。 反原発・左翼運動に対する第三の疑問は、「評価すること」に対する彼らの無条件的な拒絶の態度である。 総会でぼくが集会自体を批判する発言をしたときに真っ先に返ってきた反応は、 「それは評価だ」 という批判である。他人を評価するのではなく自分を語れというのだ。よくよく考えると彼らがぼくに対して云っていることもぼくに対する一種の「評価」なのであるが、そのあたりは気にかからないのだろうか? じっさい彼らの「討論」なるものを黙って聞いていれば、ただ、自分はこれこれこのような経験をしてこう思いました、という報告をめいめい勝手にやっているだけで、他人の発言内容をとらえて批判したりされたりということがない。論争が起きないのだ。みんながみんな筋の通ったことを云っているわけではない。ちょっと聞いただけでも突っこみの余地はいくらでも見えるのだ。それなのに論争にならない。論争にならなくて運動が発展するなんてことはありえない。発展しないばかりか、前に挙げた裁判員制度の例のように体制的な運動に後退したりする。 彼らが「評価」を嫌う理由は何であろうか。「評価する側」と「される側」という関係性ができあがってしまうことを恐れているのだろうか。それとも「人間みな平等」であるから、「評価」によって人間を色分けしてしまうことに反感を抱くのだろうか。その辺はよく分からないので今後ともよく観察して研究することにするが、そもそも「評価すること」それ自体が悪いことである理由などない。 ぼくが学校での教師による生徒の「評価」に反対するのはそれがいつも一方的・権力的なものだからであって、「評価」そのものに反対しているわけではない。一方的・権力的なものでなければ、どんどん互いに「評価」し合えばいいのだ。それが相互批判や自己変革につながる。 要するに彼らは、自分が批判されたくないということを「評価はいけない」というもっともらしい口上で自己正当化しているだけではないのか? 閉鎖的な「居場所」というものはそのようにして形成されるのである。 彼らは、相手の意見に論評を加えないで黙って聞いてやることが「相手の気持ちを考える」ことであり「思いやり」であると勘違いしているから、「相手の気持ちを考え」「思いやり」を持つことが大切だと思い込んでいる彼らは互いに批判し合うことがない。 誰からも否定されたり傷つけられたりすることなどなく、みんなで泣いたり笑ったりして「共に悩み」、強力な仲間意識(世間では「信頼関係」と呼ばれている)を構築して、ついには「安心できる居場所」が形成される。 かつて誰かがどこかで書いたように、「居場所の論理」は「排除の論理」である。せっかくできあがっている居場所の雰囲気を破壊するような「異端者」の出現を彼らは許さない。「異端者」が迷い込んでくればまず彼らの流儀に従わせようとし、それが不可能と分かれば一斉に攻撃して排除する(他人を批判することを批判することだけはなぜかできるようになっている)。 このようにしてぼくらは反原発や左翼の人々から「いわれのない差別」を受け、実質的に排除されてしまうわけである。「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)/新潮社¥756Amazon.co.jp「反原発」異論/論創社¥1,944Amazon.co.jp