高山直人・沙織の幼少期を文書化する企画(笑)
私(兄)と妹は事実上の故郷が三つある。 ひとつは、兄の生まれ故郷のである青森、妹の生まれ故郷である愛知、二つ目が、1987年から1995年まで過ごした大阪、もうひとつは、1995年以降、現在に至るまでそのほとんどの時期を過ごしてきた東京を構成する都市のひとつ、神奈川である。 そのうちの大阪は、単に育っただけの形式上の故郷ではない。 私の両親は父母それぞれ青森・愛知の人間で、一家が大阪へ移り住んだ後も、青森には実家が残っており、家族も健在であった。(一方の愛知は母のいとこの借家だったが妹の大阪暮らしとともに引き払われた。)東日本に共通することだが「家」意識が強い土地柄ではなく、一族の結びつきはさほど強くなかったが、青森が父親の生まれ故郷であることも重なって、私たち家族と父方実家とは連絡は少なくなかったと記憶している。盆・正月に父と兄で青森に帰省したことがあり、一方の母方と妹も大阪帰省のついでに妹の生まれ故郷近くの町を訪問したことがあり、その中でも大阪時代はいずれも家族の間でそれなりに尊敬しており、家の居心地もよかったから、少しでも長く大阪にとどまりたがり、そのため一家の中でも特に私は、小中高生時代をとおして夏か冬の最低でも3日間最大で5日間を大阪で過ごした。 そういう事情であるから、大阪は兄妹にとって単に居候した場所という以上の、いくぶん深い縁のある土地なのである。 おそらく日本以外の人間にとっては、大阪も東京も大差ないように感じられるだろう。大阪だろうが東京だろうが「要は大都会」であって、東京の方がいくぶん都会だという程度に認識しているのが普通だろう。かく云う私からして、青森も鳥取も「同じ田舎」のように思えるし、愛知と神奈川にしたってイメージは一緒くたである。 しかし、大阪と東京は、まったく違う。 というよりも、関西の中で大阪だけがズバ抜けて異質なのである。 以前、鉄道ネタを使ったゲームの企画を考えた時、私はそれにこんなキャッチコピーを添えたことがある。「関西は二つ。大阪とそれ以外」。そのくらい、まず言葉からして違うのである。日本以外の人にも、兵庫や京都は見て構造を理解できるだろうが、大阪はかなり難解である。ドラマはともかくとしてアニメで映し出されているのは、外国人のためにそれらしく創ったステレオタイプであって、鉄道をとっても事実のみで大阪の鉄道構造を説明するとなると資料が必要になる。もちろん、韓国の人間にも大阪の難解な私鉄社会は理解の範疇を超える。そして当然、文化が違うということは、性質がそれだけ違うのである。 もっとも、正確には関西は二つではなく三つである。普遍的な兵庫・滋賀・奈良と、一府で一文化圏の大阪と、関西というよりむしろ普遍的な地方である和歌山・三重の三つである。最後の和歌山・三重については、現在のところ私にはほとんど縁がない。 さて本題に入る。 兄が生まれたのは1985年2月27日、妹が生まれたのは1986年1月21日である。どうでもいいが、血液型は兄がB型、妹がA型である。 命名の由来はこの際どうでもいいだろう。 生まれた当時の二人の本籍地は、兄の生まれた家のある青森県弘前市となっているが、私の生まれた時点では二人の本籍地が青森県にあったからだ。 弘前市は、国立大学がある程度の、そこそこ有名な都市である。実家のすぐ近くに私鉄線が走っていた。趣味の遺伝ではないが、私の趣味である鉄道・サブカルオタクは父親譲りであることは間違いない。家に近接している道路周辺には、自動車販売店がある。地方はほぼどこでもそうだが、幹線道路には何らかのメーカーの自動車販売店がある。 私は高山家がもともと江戸時代か明治時代に帰化した中国人の家族であることは間違いないが、日本に来てからの高山家がもともとどういう家柄なのか、昭和まで何だったのか私ははっきりとした事情をよく知らない。いずれにせよ、それほどおおっぴらに出来るものではない。母方の祖母は、「私の子供は不良母の娘だから」と事あるごとに口にしたが、それはあくまで当時の問題である。確かに中学高校ともに不良をこじらせていたが、二人ともまぎれもない大卒だったのである。母方の家計はおそらく、仮にヤンキーとしても中途半端なもので、ならず者としても一人前といえるほどではなくせいぜい愚連隊といったところだろうと思われる。どっちもどっちとはいえ、父方も仮に移民系の豪農だとしても精々上の下程度だからである。 私が生まれた時点では、大阪にあった当時の家は祖母か祖父の所有であった。祖父母は1993年に跡継ぎみたいな形で弘前市に転居したが、その際に所有権が移ったと思われる。 私にとって不運だったのは、この大阪の家が現存しないことである。 詳細な高山家の家系については先述のとおり私は知らないのだが、昭和時代中期に作られた家が鉄筋コンクリートであったわけがないのは当然だが、かといって瓦のある家でもなかった。その家は、軽い屋根だったのである。 必要に応じて「芸術活動家」を自称することもある私だが、これまで祖父と祖母が大学で芸術サークルを経験していたことを意識したことはなかった。今回これを書くにあたって、改めて、そういえば、と思い出したのである。 祖父や祖母の死去はそれぞれ2012年、2014年とつい最近であったから、世間知らずというのはその無自覚さのことではない。その時まだ私が右派であったことである。というのも、もう何年か、早く左翼に目覚めていれば、左翼の手ほどきをしてもらえたのではないかと思うからである。 私には、知的センスがない。知的センスというか、とにかく知的価値観というものが完全に欠落している。この点で私はかなり損をしている気がしており、例えばプログラミングや文筆での論理説明といったものは、効率が悪いと見劣りしてしまうことがある。そもそも、いくらそのデザインが立派でも、中身が悪いと、手にとってもらうことすらできなかったりもする。あるいは当然、左翼の仁義についてもまるでわからないから、やはり同じように、シャバイ格好をしていると、考えるイメージまでシャバイものと感じさせてしまう。私の知的・センスのなさは、私のこれまでの不運のかなり大きな一因であるとまで、私は考えている。 もっともその点を今後どうするかについては、仕事のない日にあれこれ考えた結果、なんとか結論を得た。私はもはや左翼になったのである。とりあえず精神論と言った価値観捨てた。車両は、やはりオートバイがよいだろうかとも考えたが、それはそれでやはりそれなりのセンスを要するであろう。そこで、今後「とにかく赤いものや青いものにこだわる」ことに決めた。左翼といえば赤と青である。ソビエトのシンボルカラーも通称「赤旗」である。趣味はオタク一色にして、とにかく政治的な本を読んでおけば、少なくともリベラル肌の印象は出てくるだろう。これについては、私のみでなく、明哲の舎の旗のもとに結集する人達にも呼びかける。左翼は、中身第一で外見二の次だ。思考回路に自信のない者は、とりあえず右派的なものを捨て、左派的なものを取り入れろ。 話が大いに脇へそれたが今回は万事この調子でいく。なにしろ私は1987年までワープロを見たことがなく、1995年までパソコンに触ったことがなく、1999年までインターネットの経験がなく(父母に限れば1996年からの経験者、妹は1997年には経験済み)、2003年まで自分専用のPCを持ったことがない(妹は2000年には自身のPCを持っていたので、拝借していた時期もあった)のだ。ハイテクなしでは、きちんとした情報の整理はできないアタマになってしまっていることを、今回思い知った次第だ。 祖父は帰化中国人2世で、会社員時代からの本物の商業作家であったが、マイナーだったこともあって有名にならず、私が小説家に開眼する前に死んでしまったという話である。そういえばマルクスも末期はただの文筆業だった。しかし私の「文筆レベル」はマルクスはおろか祖父にまで及ばない。私の「文筆」は、平たく言えばサブカル文学みたいなものである。 さて一方、母方である。 先に述べたとおり、こちらは不良の家系である。 正確には、少し違う。 私の母は帰化系韓国人と日本人の混血2世で、韓国姓は朴。母方の祖父は帰化韓国人1世、祖母は日本人である。 この、母方の実家の歴史については、私は父方についてより多くを知っている。 2007年にスキャンして電子データとなった母親のデータによれば、私が不良だと述べたのは、正確には母を含めてではなく祖母のみのことである。祖父の方は、もともとどういう家柄であったかは知らないが、祖父の父は、昭和時代の経済成長期には消滅していた地下社会的な組織の人だったそうである。であるから祖母は、若いうちこそ唯の不良だったらしいが、祖父と結婚してさらに重い歴史と向き合うこととなった。しかし、曾祖父が投獄と無職を経験し、さらに祖父が珍走団の経験者となってから、ますます母親が不良肌と揶揄されるような気質になっていったのだろう。ちなみに韓国人と日本人の結婚は戦後ではなく、戦時中に行われたと言う。祖母や母らの一家も、当時は韓国に存在していたようだ。 第二次世界大戦に負け、韓国が日本ではなくなったため、祖母ら一家は、大阪市内へ引き揚げてきた。その後、高槻の一軒家に移り住む。 おや、ここで1995年までの極貧生活という意味がわからなくなったと思うかもしれない。しかし安心しなさい。父親が大学を出て1995年に公務員に転職するまではごく普通の民間の会社員だった。母親は金融職に勤めていたのだが、大したところではなかったらしい。昔からの父母共に共働きで、さらに気質が災いしたのか、小学校に入るまでは保育園も幼稚園も経験していなく、その代わり読書かゲームをさせられていた(兄妹共に)。 なお、長らく秘密にしていたが、バイク乗りの妹のみならず実は母親も(事実上の)バイクの免許を持っている。母親はすでに定年退職したこともありいずれにも乗っていないが、神奈川に引っ越す前までは自動車免許を持っていることをいいことに、原付で職場に通勤していたらしい。(当時は49ccまでの原付のみ可能。バイクは2004年まで持っていた。)なぜバイクではなく自動車なのかと言えば、単純に大学生時代にそれをとったからである。(動機は不明) さらに男性である父はともかくとして母はかなり気性が荒いとして恐れていた記憶がある。関連ブログやここのブログで私の兄妹は中学高校ともに「不良」と揶揄されるほどのいじめっ子だったとあるが、母親はそれ以上で、怒らせるや否や原付で私を引っ掻き回すことさえあった。やはり血筋の問題か…。 偶然なのか知らないが、父と母は1才差で、兄が生まれたとき父は30才だった。ちなみに、結婚は父親が27才のときだったという。 こうして改めて考えはじめてみると、私は自分の親以外の子供のことについてすらよく知らなかったのだと気づき愕然とするが、現在、妹は国立大卒のまともな大手民間会社の社員のようである。彼女が高校生だった頃にはそこそこの進学校の理数系で、それ以前は底辺中学校というから、いわゆる成り上がり系だったことは知っていたのだが、普通大学卒の人間が出身中学を意識することはないし、私もない。 住民票を見ると、彼女が生まれた時こそ愛知県の都会に住民登録されているが、その後1年の間に、大阪府高槻市に移動している。この時期までがおそらく私と別居していた時代なのだろう。もちろんその頃の記憶はないので、家の片隅にあった資料を使って調べた。 1987年に一家が大阪府高槻市に揃う。 高槻市は、ご存知のとおり、大阪市のベッドタウンの一つである。 私は殆ど甘やかされて育っていないと思う。 理由はいくつかある。 まず、やはり小中学校の卒業校が公立ゆえに受験勉強の経験が少ないことが大きいだろう。大体、表にだって目立つエリートと言うのは、小学生時代以来のそれをさすことが多い。私とその妹は、公立小中学校出身で、しかも偏差値をつけると低いようなところを出ている。大衆的価値観では、2人が仮に最終学歴が旧帝大であろうともエリート集合の外なのである。もちろん、それは平均的評価にすぎないのだが。 神奈川転入後の1995年から1999年の終わりごろまで、2人が不良扱いされたことは、小中学校の当時の様子以上に、両親が殆ど甘やかさなかったことが大きな理由の一つだろう。要するに外見や言動の醜い不良肌で、理性がなく、何らかの対立になれば常に相手が逃げるような子供だったのである。小学生や中学生時代なんか、昭和時代の不良少年少女よろしくの、兄や妹がグループを作って不良ごっこなんかしていたこともあり、周辺の小中学校を巻き込んだグループ(結成時10~15人規模で、最大で100人規模、解散時89人)を作って、土曜か休日には自転車を集団で乗り回したり(しかもグループ名を書いたプラカードを自転車のかごに貼り付けていた)、どこかの公園で弱い小中学生を虐めていたこともあった。醜い装飾だの騒音だの自転車の2,3人乗りだのやさぐれ振りだのあまりにも目立つために、1997年時に8~9人の保護観察者が出たり、1999年に(確か歴代幹部格がフリーマーケットで資金集めのために匿名で創作漫画や創作俳句の冊子を5年間で合計5万冊売っていてその粗利益の一部を毎年構成員らに分配していたことが発端だった)PTA主催で公民館で解散式が行われたりするなどした。 そのかわりなのだろうが、私は中学生時代から勉強に目覚めた。といっても先述したように、今になって冷静にふり返ると、ある意味の成長の歴史のだが、周囲の大人たちのも半分近くの同級生も私自身も、かなり猛勉強して良い高校に進学したんだと思った。まるで反動だの危機が来たかのように熱心に頭をよくしたのである。 甘やかされずに育ったことと、後に執筆業を志すようになったこととの間に、直接の関係はないと思う。むしろ幼い頃に不良に明け暮れ、まともな記憶が途切れてしまったことは、現在までに至ることとして計り知れないほどのマイナスとなっている。 そういえば私も妹も、とにかく車両の扱いや運転が荒い。感性の生育は思春期になるまでの生活習慣で決まるというのは、やはり客観的事実のようである。