映画って観賞と鑑賞ってどっちがどっちだっけ、鑑賞は絵画か?まぁいいか。


どうしても「宮沢賢治の食卓」比較になっちゃうので、そこは勘弁されたし。

それぞれによかったところはあるとは思いました。


「食卓」「父」(かぎかっこは映画の方)共にネタバレしまくってますので、未見の方は読まない方がいいです。


先に原作は読んでて、映画化されると聞いた時本当は映画館で観たかったのですが、閉所恐怖症と喘息のコラボを持ってるため、レンタルをずっと待ってました。



まずビジュアルについて。


父が眼鏡をかけてたのは良かった。「食卓」は眼鏡がないのが残念だったので(確か父の写真は眼鏡掛けてたはず)


流石の超変幻自在俳優鈴木亮平でも身長は削れなかったので、「食卓」を最初観た時違和感(賢治デカ過ぎやろ)が強過ぎましたが、菅田将暉はビジュアルとしては近いと思います。

私は菅田将暉は鎌倉殿の義経以来なので、すっかり菅田将暉=岩手の人、になりました。

新世界が菅田将暉に流れるのも2回目。


「食卓」はトシがもう一人の主人公な位の存在だったので、(最終話がトシの話だったし)トシは「食卓」の方が好きかな。



内容。


一人称が父だから当たり前なんだけど原作の方がお父さんめちゃくちゃ語りまくってるから心境が分かりやすかった。

役者が悪いとかいう話ではないです。

映像化というものはそんなものです。


賢治についてはもっと喜怒哀楽のある(というか狂った)部分が見たかった。鎌倉殿の義経ばりの狂気が見たかった。親子喧嘩ももっとして欲しかった。トシが亡くなってもっと狂って欲しかった。

父視点だと賢治は暗い子に見えたってことになっちゃう。


トシ気が強い。

病弱で儚げな優しいヒロイン(賢治は独身だから必然的にトシがヒロインになってしまう)像、祖父にビンタしたり喧嘩に割って入って止めるトシ、好みはそれぞれ。


ところで、実話ではトシがきっかけで作家になったんだっけ?ちょっとその辺りがあやふや。

中学時代に詩をスケッチしてたし。東京時代に書いてなかったっけ。


宮沢家事情を予め知ってると、トシが祖父に死に方を説くシーンで色々考えますよね。

というか、今回祖父を出したのは良かった(理由は後述)

その辺りは「食卓」とは真逆で、「食卓」のトシ役の俳優さんが「生(セイ)」に凄く執着する事を意識して演技したとコメントしてました。

もっと先生がしたかった、教え子から手紙がこんなに来るんだと泣き、妹の晴れ姿を見て堪えるトシの方が死を簡単に受け入れる「父」よりリアルだと思いますが、明治と現代の「死」に対する考えの違いが分からないのでなんとも。

そしてこの物語はあくまで父(と息子)が主役だからトシの扱いも寂しい。


母の存在感がちょっと薄い。

父の妻なのに。

これじゃまるでお母さんが病気を心配してない様に思うじゃないか。

そして父との比較に賢治を理解してない人の象徴として扱われたのは残念。

史実では明るい大らかな母とあったように思いますが。


主人公視点だとちょっと変わってるけど頼れる兄ちゃんなのに対し、父視点だとダメ息子ですね。

まぁそんなもんか。


お父さんとの和解がちょっと早いと思ったけど、伝記もどこまで史実通りかわからないですからね。(店畳んだのが賢治の病気発覚なのか死後なのかどっちだっけ?で、宮沢家は賢治の死後改宗したんだよね)


銀河鉄道の夜でジョバンニとカンパネルラを賢治とトシにする説はよく見かけますが、鳥捕りの人を父にする発想はかなり面白い。

そうなると、銀河鉄道の夜では鬱陶しがられていた鳥捕りの人が、突然いなくなると「もっとお話ししたかった」なんて寂しがったりして、見方を変えると親子ってそんなもんだよなぁと。


エンディングの曲は「食卓」の圧勝。すまんね。


後編へ続く