この論文は昨年11月に投稿しなものです。

 

「物事は、その人がどのように感じ取るかによって、異なります。いじめも同じです。多くの人はいじめに対して、いじめる側が加害者、そして、いじめられる側が被害者と判断する。又、いじめる側が強い、そして、いじめられる側が弱いと見るものも少なくない。果たして、その解釈は正解だろうか。では、次の解釈も含めて、考えて見ましょう。

 

先ず、いじめる側が本当に強いとするならば、例えば、何故、自分に別に何もしていないのに、相手の存在自体を気にするのだろうか。何故、自分一人でいじめる行動をしないで、多くの”部下”を巻き込み、団体で行うのだろうか。何故、侮辱行為、又は暴力行為で相手に掛かるのだろうか。本当に強い者がったら、逆に相手の存在はどうでも良いことではないでしょうか。本当に強い者でしたら、先ず、一人で相手に抗議することが出来るはずです。そして、本当に強い者でしたら、別に侮辱や暴力を起こさなくても、周囲の人から認められるはずです。 たったこの観点から見ても、いじめる側は本当に強い者とは言えません。要するに、卑怯者は決して強い者とは言えません。

 

一方、いじめられる側は本当に弱い者でしょうか。 例えば、彼らは、別に何もしなくても、相手に感情を起こさせる力を持っている。要するに、相手のご都合の思い通りの姿勢を表さない、或いは、別にその様な意識が無くても、相手に妬み心を起させる雰囲気を表すだけのことで、相手を動かす力を発揮する。このような状況を無意識で起こすことが出来る者が、本当に弱いと言えるだろうか。

 

私は、片方の肩を持つでなく、双方に原因があると申しているだけです。 いじめの内容は関係なく、普段の争いからいじめにエスカレートする前に、先ず、一般教育として、この真実を、子どもたちに教える必要があると思います。子供達だけでなく、人間として力を競い合うのは当たり前です。勝ち組を煽て上げ、負け組を見下す姿勢こそ、一般社会が普段起こしている真の差別です。 その結果、負け嫌いの弱い者が、相手を侮辱し、ある時は暴力を振るってまで、自分を勝ち組に仕立てようとする。一方、本当は自分なりに強い者でも、侮辱する相手に対して、自分は負け組だと判断し、恥を感じ、親や担任に打ち明けることさえ拒み、一人で悩み苦しみ、精神的に戸惑い、最終的には自分自身に負けてしまうのです。」