良心作用とまた真の愛構造は同じではないでしょうか。

 

ただ向かう先が良心作用主体である自分自身で

真の愛は向かう先が相対である対象なのではないでしょうか。

 

 

「宇宙万物はいったん創造されたのちにも、絶えず神から一定の力を受けている(原力→万有原力)から

 

万有原力=神の愛

 

被造物は神の愛を受け続けない存在さえできない

 

つまり、私たちは神に見捨てられているような立場に立っていても、実はこの世に存在しているだけで、神からの無条件の愛を受け続けている

個性真理体」とは

つまり「みんなちがってみんないい」ということ。

 

私が両手を広げても

お空をちっとも飛べないが

飛べる小鳥は私のように

地面を速く走れない

 

私が体をゆすっても

きれいな音は出ないけど

あの鳴る鈴は私のように

たくさん唄は知らないよ

 

鈴と小鳥と それから私

みんなちがって みんないい

 

by金子みすず

「人間はその欲望が善より悪の方向に傾きやすい生活環境にあるため」のその生活環境とは、例えば修練会ホーム生活修道院などの共同体の中に居ると悪に流れづらいからと言える。

「人間はその欲望のゆえに葛藤し、必死の努力をしている」というのも、一人でやるのは難しいということ。

矛盾した存在目的を持つ存在としては生成することすらできない」とは「欲望とは目的を実現して行くための衝動的な意欲」ということから、二つの目的(善と悪)が繰り返し出てくるということだから、目的を作っては壊し合う関係にあるということだから生成することさえできない

「一方(本心)が最初からあったのに対し、もう一方(邪心)はあとに生じたのである」とあることから、邪心とは歪んだ本心と言える。

神様と被造世界の関係は一つの有機体を成しているようあるが、一方的なものではなく、神様は人間中心人間は神様中心お互いを思いやる関係にあるということを忘れてはなりません。

神様の格位は男性格というがこれは何でも主体という意味であり、いつなんどきも一方的に与える立場にいるということ。男たるは投入することに全力を注ぐべき。

神様が天の母と言うことは天の父、母なる大地という言葉に隠されてきた。だから自然崇拝をする宗教の民族荒っぽくないし、ユダヤ教のような男主人の神厳しいし、キリスト教は天のお父様だが聖霊を通してしかわからないのだから聖霊という母性に導かれ優しい神となる。しかし統一原理では蕩減という厳しい面と、理想成就という優しい面があるために父母の神となる。