放送開始そうそう中止を求める抗議が相次いだ、いわくつきのドラマとなったが、遅ればせながらどうしても書いておきたい。
うちでは毎回録画して、小学生の娘と見ていた。

確かに子どもたちのニックネームは過激で、いくらなんでも有り得ないと感じた。
最後に本来の名前を取り戻す設定だったため、何らかのニックネームは必要だったのだろうが、さすがに行き過ぎだ。

抗議の声があがって、まず小学生が11時までテレビを見ていることに驚いた。
施設では内容に不安があるものを見せないこともできたのではないかと思うし、誰しも、見て不愉快な番組を見ない自由はある。
しかし大人と見ていたら、必ず何らかのやり取りがあり、安易に学校でのいじめに繋がることにはならないと思う。
おそらくそういう子は一人で、黙って観ているのだろう。
そして、ドラマを観て何かしらモヤモヤしたものを感じたのではないだろうか。
しかし誰とも話すことができず、何らかのストレスを感じていたのかもしれない。
そんなモヤモヤを抱えたまま学校へ行ったため、それが歪んだ形で出てきてしまったのかもしれない。
本当は観た後で重い気持ちになり、誰かと話したかったのかもしれない。
働く大人は忙しくて、特に平日はそんな会話が持てない家庭もあるだろう。
大概の子どもの問題は、本当は大人の問題なのだ。
だから、教師やカウンセラー、周りの大人は、子どもたちの会話に耳をすませて、すかさず取り上げ、話してほしい。

現場からの抗議は全く悪いことと思わない。寧ろどんどん抗議すべきだ。
それによって、現実はドラマと異なることを世間にアピールすることも大切だし、施設の子どもたちは、自分達の味方となってくれる大人を、よき理解者と感じることができるだろう。
しかし放送を中止し、なかったものにしてしまうのはどうかと思う。
果たしてパンドラの箱を閉ざしたまま、問題自体をないもののようにしてしまってよいのか?ということである。
いじめの原因とも言われるお笑い番組など、放送してほしくない番組は、いくらでもある。
PTAが抗議しても、スポンサーが動じないせいか、テレビ局はどこ吹く風である。
私たちは、個人個人がもっと声をあげていいのだ。
放送局の電話を鳴り響かせ、業務に支障が出るほどのことをしていいのだ。
でなければ、相手を変えることなどできない。
放送が中止になるかどうかはともかくとして、まず、いま私たちは声をあげる必要があるのだ。
テレビ局に電話やメールするのなんて、簡単なことだ。

あえて社会のタブーを取り上げるのは、野島伸司の真骨頂だ。
制作側は、抗議の声も予測していたろう。
寧ろ、声をあげることを望んでいたのではないか。
抗議の先には議論があるはずだ。
ドラマが終わっても議論を継続してほしいし、その議論を取り上げてほしい。
野島氏がタブーを取り上げるのは、ドラマをきっかけに、当事者以外の人間にも考えてほしいからではないか。
問題があっても、当事者だけではなかなか変えられない制度がある。
数ではマイノリティーの問題でも、知れば皆が疑問を持つような問題がある。
それを、他人事であるその他大勢の人々に考えて欲しいのではないか。

沖縄も、福島も、当事者だけでは出来ないこと、この国を変えるために当事者以外の人間がやるべき事があるのではないか。

スポンサーはイメージダウンを恐れて姿を消してしまった。しかも今回は、随分と判断が早かった。
その事なかれ主義はクレームに弱い日本人らしい判断ではある。
しかし今回のことは、今後、秘保法が施行されれば、何も言われなくとも自己規制が強まり、いとも簡単に、あらゆる表現を自発的に抑制するようになるであろうことを世に知らしめた。

この国には対話がない。

それでいいのか!?日本国!

もちろん、局側は話題性で視聴者獲得を狙ったのだろうが
報道では国の意向に屈しながらも、別の角度で国民に声をあげさせるべく放映を続けたテレビ局の判断を評価したい。

もう一度言いたい。
私たちはもっと声をあげていい。
寧ろ黙っていてはいけない。
黙っていては何も伝えることができない。
黙っていれば、不満や不服はないものとされてしまう。
だから
日本人よ、今、声をあげよう。