(7/7から8までのおはなし)
(ss)









世間のさえずりなどしらなかった。
透明な輪郭にそって撫でる指で紡ぐ様な細い記憶はもはや自分の記憶なのかもわからない。
他人から教わる自分は自分であるが誰よりも知らぬ他人である。
時折漠然とした圧倒的な衝動に耳を塞ぎ自身の残響に怯えた。
欲しかったのは肯定である。

















外は雨だ。
ぱたりぱたりと雨粒の音が聞こえる。部屋は暗く月明かりも届かない。
新月は何時だっただろう。
見えない月を追うことは地界のころに似ているが、不順であったことはない。
ヴァレンタインが自身の左手をみやる。
子供のような幼い瞳は、昼間のような活気をもたず憂げに陰をさしていた。

視線の先のその手は暖かい他人の手に包まれていた。
ゆるく手を握れば、慣れて体温と感覚の同化したようなぬくもりに違和感が生じ、互いの手が同化していなかったことに安心し少し残念にもおもう。

「どうかしましたか」
雨音の中に、密やかな低い声が投げかける。
声をかけられ少し顔を傾けたヴァレンタインだが、視線はそのまま、アラーニェに握られた自身の右手を眺め、息を吐く様に言葉を繋ぐ。
「ラァネさんの手と ぼくのて くっついちゃったかとおもったの」
「そんなことある訳ないでしょう」
「うん ばらばらのままでした」
「当たり前です」
「くっついても たのしそう」
「不便なだけですよ」
無感動な声だが、言葉程にアラーニェのトーンに棘がないことにヴァレンタインは俯いて小さく笑う。




そこはアラーニェのベッドルームだった。
ベッドの縁にアラーニェが座り、そのベッド脇に沿うようにヴァレンタインの座るロッキングチェアーがある。
ACカンパニーで揺れ椅子に一目惚れしたヴァレンタインがねだって買ってもらったが、ヴァレンタイン自体に重さがないためほとんど自力で揺らすことができず、ヴァレンタインが頬を膨らませた代物だ。
元々ウッドデッキにあったが、アラーニェの部屋に入っても怒られなくなった辺りから、気付けば勝手にヴァレンタインが引っ張ってきていたのである。


ベッドから数歩あるけば庭に接する大きな窓がある。天井から床までの一面の窓だ。ヴァレンタインはこの窓が好きだ。
お互い見つめ合うことはしない。握った手を介して感情が伝わればいいのに、とそう思ったのはヴァレンタインのほうだった。
お互い、うまく言葉を見つけられないで夜が過ぎていく。



「あなたには紅茶をいれられなくなります」
あなたの好きなケーキもつくれませんし、と、揺れる視線でアラーニェが呟く。
持て余した気持ちのやり場に戸惑って、背けるように握っていたアラーニェの指が緩む。

きっと、黙ってしまった自分に対して、傷つけたと思って焦っているのだろう、とヴァレンタインは結論づける。
音をたてないロッキングチェアから少し身を乗り出して、ヴァレンタインが少し浮いたアラーニェの手を追いかけるように、彼の小指に指を絡める。
ぱたりぱたり、と窓を打つ雨の音を聞きながら、ヴァレンタインは、自身ができるいちばんの柔らかい笑顔をアラーニェに向けた。


「ラァネさん いいの」
ひとつ呼吸をして、またきゅっと小指を擦る様に握る。
「むりしないで ぼく あしたもここにいるから おやすみなさい しましょう?」
ね、と首を傾げて主に促した。
「ラァネさんのねがお ぼく すきです」



ね、ほらほら、と促されるまま、何か言いたげに口を開いたアラーニェをベッドに押し込むと、両手で膝を抱えるようにしてヴァレンタインが椅子に座り直して笑った。
「ふふふ!ラァネさん ねちゃえ ねちゃえ」
「今日はいやに強引ですね」
「たまには いいでしょう?」
「またそうやって窮屈そうに」
「いいでしょう 好きなんです」
「だからベッドを買ってあるのに」
「眠らないのに あんなにひろいところで ひとり さびしいもの」
アラーニェが眉をひそめた。

あ、また、とヴァレンタインが苦く笑う。
言いたい事がある顔をしている、とおもう。でも言わないのは、自分が言えなくしているのだろうか。
ちくりと胸が痛む気がした。
何かを耐えるようにアラーニェが目を閉じた。




「手を」
ぼそりとぶっきらぼうに呟いたアラーニェに首を傾げると、もう一度同じ言葉を繰り返される。
ヴァレンタインが手を差し出せば、先ほどより強くアラーニェの手に握られ、そのままベッドの上まで軽くひっぱられた。
「勝手に離さないでください」
目を閉じたまま、アラーニェの手はしっかりとヴァレンタインの手をシーツに押し付けるように握る。
ヴァレンタインはそれを、泣きそうな笑顔でみていた。
「おやすみなさい ラァネさん」
















眠るつもりがなかったのだと、ヴァレンタインは主を推測する。
ここ数日はずっとそうで、その原因は自分にある。自分の記憶のリセットの日付がずれてしまったからだ。
「前」の自分がどうだったかは知らないが、ずれることは万に一つもないことだとは分かる。
それは地界の月の支配下にある限り・自分が地界のヌケニンである限り、変わらない事実だった筈だ。
こんなことはおかしいと、自身のコアが叫び、けれど胸をつくのは安堵と不安と、少しの期待。
期待はやがて溜め息に変わるのだと自分自身がよくわかっている。

以前の新月で、主はひどく動揺したようで、この度の新月を迎えるあたりから、夜はヴァレンタインの手を握って眠るようになった。
ヴァレンタインはそれを、嬉しいと思う反面で、苦しくもあった。



きっと目を瞑るだけのつもりだったのだろう、しかし無意識に握る手が緩み出した。アラーニェは浅い眠りにつこうとしている。
薄く開いた唇から吐息のように何かを言ったようだったが、ヴァレンタインには聞き取れなかった。
その様子を眺めながら、また椅子から身を乗り出し、ヴァレンタインがアラーニェの頬を空いている手の甲でなでる。
見つめるヴァレンタインの瞼も、ゆるく伏せ気味であった。






「ねえ ラァネさん
あしたもぼくは ここにいます
でも あしたのぼくは いまのぼくでは ないんです」



背中の淵が 燃えるように熱い
何かが抜けていくような虚脱感に瞼が震える



「あなたがくれたもの みんながくれたもの
例えば椅子や写真だとか いっぱいあるのだけど

ぼくは えらんでもっていられないから
それだけが とても 悲しいの」



この瞼をいま閉じてしまえば
それで終りだと知っている
閉じそうになる瞼を必死に耐えて言葉を紡ぐ



「あなたが離したくないのは ねえ いまのぼく?
それとも 離してしまった まえのぼく?
つぎのぼくにも そうやって 手をにぎろうとおもえるかな」




次の自分が 今の自分より幸せであれるのか
今の自分は 前の自分より劣っているのではないか
皆が名前を呼ぶ自分は それはいつの自分のことなのか


写真に映る大切な人が明日には知らない誰かになる
それに次の自分が 今の自分に嫉妬も不安も覚えずにいられるかわからない
それでも



「ぼくはね ずっとひとりなの
地続きでは おぼえていられないけど ぼくのコアは ずっとここに ひとつだけ
だからね それだけ ぼくよりずっと 忘れないでいてほしいんです」



僕が僕に嫉妬してしまっても 僕が僕を嫌になっても
僕が僕をわからなくなっても
貴方は僕が だれかを 知っていてほしいとおもう
欲しいのはそう、僕は僕であるという、誰かからの肯定



「だいじょうぶ つぎのぼくも きっとあなたを すきになるよ」


だって僕は ずっとおなじ ひとりだけ










浅い呼吸のまま、ヴァレンタインが揺れ椅子から乗り出し、眠るアラーニェの耳元へ顔を近づける。
耐えられぬ虚脱感に瞼を閉じ、力の抜けそうな腕をつっぱって、雨の音に消えそうな声をたゆたせた。



「もう会えないよ さようなら ラァネさん」


次のぼくにもやさしくしてね、と、そう言ったつもりだった。
その言葉は音を持つことなく、ヴァレンタインは背中に大きな鼓動を感じ、
そこでヴァレンタインの意識は終わった。





































かたん、という堅い音でアラーニェの意識が浮上した。
眠るつもりなどなかったのに、と目をこすり、こすった手に違和感を感じ、気付いた刹那に愕然とした。
その手は確かにヴァレンタインの手を握っていた筈だった。

がばりと身を起こせば、揺れる無人のロッキングチェアと、微かな雨の匂いに混じるさらに微かな甘い匂い、それと暗い部屋に不可思議に煌めく無数の光の欠片。
ベッドから飛び降りようとして慌てて踏みとどまった。
ロッキングチェアの足下には、淡く霧散を始めた獣の抜け殻が転がっていたからだった。


呆然として先ほどまで握っていたと思っていた手を眺める。
掌にはさらさらと流れて溶ける光の粒子が踊っていた。












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記憶リセットの瞬間、アラーニェさん@inuさんお借りしました。
あんまり考えてなさそうだけど、内心はとても複雑で、嬉しいとか、幸せとか、好きだとか、そればかりではない。
ひとに教えてもらう自分は自分であって自分ではないし、何度忘れても名前を呼んでくれる皆が大好きだけど、
皆が呼んでくれるのは、今の自分ではないんだろうな、と思うことも多い。
前の自分も今の自分も次の自分も愛してほしい、と思う反面、今の自分だけを愛してほしいともおもう。

そういう矛盾をもった不安を毎回抱えて、毎回忘れてしまうのは、いいことなのかわからない。
ただ誰かに、前とか今とか関係ない、ただただ漠然としたものでいいから、存在に対して絶対的な肯定をしてほしいのです。
という話。

…………でもあり、前半ただのいちゃいちゃみたいになって本当すみませんでした土下座