(ss)
(5月おわりごろ)
アラアネさん、と、口のなかで呟き,喉の奥に飲み込んだ。
かれこれそれを7回と繰り返し、その前にラァネさん、と2度繰り返し、その前にはあの、と5回繰り返している。
何と呼べば振り向いてくれるだろうかと考え、何と呼んでいいのかと気付き、頭を垂れてしまったのだ。
子供っぽくていけない、とヴァレンタインもおもうが、いかんせん彼の名は言い辛いのだ。
言い易い名を呼ぶことを咎められはしなかった。だがあまりいい顔もされなかったことを思い出す。そして少し寂しくなる。
この感情を昔も感じていた気がした。どこだったのか分からないが、きっとヴァレンタインと一緒にいた頃だ、と、ヴァレンタインは自身と同じ名前と同じ顔をもつ彼女を思い出す。
何度記憶を上書きしても、彼女のことだけは、忘れられない。
いや、忘れないように、魂が叫んでいるのだ。
浅く呼吸をしながら、目を閉じる。
大丈夫、きっと、と、何回と唱えた呪文を繋ぐ。
魂とは美しく、そして厄介だ。
宙に浮く透けるような足に力をいれ、腕の感触を確かめるようにドアの取っ手に手をかけ、ゆっくりと目をあける。
この扉を開くことは、明日に繋がるのだと言い聞かせながら、ヴァレンタインにとっては少し重たいドアを開けた。
「いつまでそうしている気ですか」
小さく唸ったヴァレンタインは、更に俯くことしかできない。
咎められたんじゃないと分かっていても、敏感になってしまった感情は相手の言葉の端々から全てを探ろうとしてしまう。
やがて相手がつくため息も、四度目になろうとしている。
ドアの前で立ち尽くすヴァレンタインを、アラーニェは眉間に皺を寄せてみていた。
なんなんだ、と問うのは簡単だったが、答えが返ってくるのは難しかった。
口をきゅっと結んで部屋に入ってきたこの獣は、意を決したような瞳をしながら、口を開いては、あの、だとか、その、だとかを繰り返すだけで、一向に話題を切り出さなかった。
アラーニェが用件を促すたびに怯えたように俯く姿に、段々と眉間に寄せた皺が増え、ため息もついてしまう。
足を組んで座った膝の上に重ねた手が膝を叩き出すと、この小さな獣は更に小さくなった。
ため息をつくなというほうが無理だ、とアラーニェは思うし、一般論だと確信もある。
相手が何がしたいのかわからない。
アラーニェがそう思ったのと同時に、彼(実際は彼女なのかもしれないが、それすらもよく知らない)がいつも何をしているのか知らなかったし、何をしたいのかと聞いたこともないと気付いた。
不明瞭な気分だと、5度目のため息を飲み込む。相手も自分も、互いのカードを何一つ知らないで一ヶ月を過ごしたのだ。
契約とは厄介なものだとアラーニェが立ち上がろうとしたとき、ヴァレンタインが掠れるような声をあげた。
「僕、ぼく、忘れてしまうんです。なにもかも、忘れてしまうの、アラアネさん」
彼の話し方は特有で、どこか穴の空いたようなというか、空気のぬけるような声をしている。そのくせ、頭の隅にこびりついたように忘れられない声だ。
そうぼんやり思いながら、アラーニェがさらに眉をしかめて足を組み直した。
「脈絡がないですね。順を追った説明をお願いしたいのですが。できますか」
あまり期待はしませんが、と足すと、ヴァレンタインの顔が一瞬泣き出しそうに歪んだが、気づかない振りをした。
ただ純粋に苦手そうだと思っただけであり、泣かせる為にいったのではなく、勿論嫌味として吐いたわけでもなかった。
「あと2日です この世界は 月が見える 僕の一族は 抜け殻だから 忘れてしまいます また はじめから 抜け殻になるために 殻をつくりなおします 殻をつくるとき 今の僕はきえてしまうの だから」
「ゆっくりなのはいいですが、息継ぎをして話してください」
そしてやはり意味がわかりません、と言うしかなかった。
「抜け殻とはあなたのことですか?貴方は生きているし、ヌケニンを貴方の祖国ではそう呼ぶのでしょうか」
「僕たちの素体は そう呼んでいました」
「そたい?」
「ヴァレンタインが、僕とヴァレンタインに分岐する前のヴァレンタインのこと。それと、分岐したあとに記憶を受け取った正当な過去を過ごすヴァレンタイン」
「待って。頭が整理できません。貴方は一体誰の話をしているんですか。貴方は誰なんですか」
「僕はヴァレンタインの分岐体、僕は彼女にマイ ブラッディ ヴァレンタインという識別名をつけられました」
「...理解が追いつかない」
頭を抱えるようにしてため息をついたアラーニェに、ヴァレンタインは苦く笑うことしかできなかった。
大抵のあいては、エリュシオの一部のもの以外、一族のはなしをするとこのような反応を返した。
分岐進化をする者は他にもいたが、分岐先の互いが同時に存在する者は我らが唯一なのだと知っている。
そして、それをあらかじめ知っている者は、我らがひどく閉鎖的に生きていることも知っている者だ、とヴァレンタインは胸の内で俯く様に笑った。
「...その話をおいて置いたとして、記憶をなくす云々との関係性を説明してください」
「そう ええと 分岐体の僕たちは 殻だから 抜け殻だから つくりかえなきゃいけなくて そうすると忘れてしまうから」
「だから何故そこが繋がるのか説明してくださいと言っているんです」
「だから ぼくらは抜け殻だから」
「わかりました、もういいです」
がたん、と音を立てた椅子からアラーニェが立ち上がった。
びくりと大袈裟なほど肩を震わせたヴァレンタインの横を、一瞥もくれないままでアラーニェが通りすぎた。
「あと5分でらんらんとガラッシアが来ます。応接間に通しますから、貴方はどこかの部屋で座っていてください」
「あの」
「長くなるようですから、続きは後日暇ができた時に聞きます」
がちゃりとドアを押し、アラーニェが部屋をでていく。
あわてて振り返ったヴァレンタインが手を伸ばした。
そこでふと、この指は何を掴むつもりなのかと自問してしまう。
彼の美しい輝色の後ろ髪をみつめながら、伸ばした手を見つからないように引っ込めた。
ドアを閉める直前、アラーニェがヴァレンタインを振り返ったようにみえたが、ヴァレンタインはその視線の意味を汲むのが怖く思えて、目を逸らすことしかできなかった。
月の消える新月の夜まで、あと2日だった。
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アラーニェさん@inuさんお借りしましたー
記憶をなくすことをうまく説明できなくて、するっと流されてしまうヴァレンタインと、よくわからないから後回しにしようとして忘れてしまうアラーニェさん。
これで5月はおわりかな?
来月のおはなしからデレにむかうぞー!めらめら