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こんちゃんの「社会世相を斬って、見てみる」

身近な話題から時事問題まで、自分の感性の働きから感じた事、考えた事を、斬って、見てみる。

あまりに色々なことが起きていて、その全てをフォローすることはとてもではないができない。

 

 

新聞を読んでいても、自分の関心が高いところにだけ目が向いてしまう。

 

 

それでも、ネットであらかじめ自分の好みに最適化されて配信されるニュースよりは、少しは幅広いかもしれないが。

 

 

そもそも、新聞にしても、各新聞社の編集方針によって、どのトピックスを1面に持ってくるのか、それがどれぐらいの分量で、どのようなトーンで書くのか違ってくる。

 

 

プロ野球の記事にしても、読売新聞や報知新聞は当然ながら巨人を大きく取り上げるだろうが、実は自分が読んでいる日経新聞ではほとんど取り上げられていない。

 

 

おそらく意識的なのだろうが、パリーグの球団を取り上げることが多いような気がする。

 

 

尤も、新聞の購読率の減少傾向は著しく、新聞が世間大きな影響を与える度合いも小さくなってきているのだろう。

 

 

アメリカでは大統領選挙の候補者が狙撃されたとのことだ。

 

 

幸いに命に別条はないとのことだ。

 

 

アメリカ時間では7月13日のことだったそうだ。

 

 

7月14日はフランスの革命記念日。

 

 

1789年7月14日に起きたバスチーユ牢獄の襲撃がフランス革命始まりの象徴的な出来事とされ、記念日となった。

 

 

襲撃という暴力的な行為によって革命は始まったとするならば、今でも起きている襲撃事件が、後から振り返れば革命の始まりだったということがあるかもしれない。

 

 

バスチーユ牢獄の襲撃にしても、当時の社会体制の側からすれば、違法行為となる。

 

 

ロシア革命にしても、当時のロシアの社会体制の側からしてみれば、違法行為を働いていることになる。

 

 

コンプライアンスを「法令遵守」という文脈だけでとらえるならば、革命のほとんどはコンプライアンス違反となるかもしれない。

 

 

「革命」と名の付くものは、現状からの価値観も含めた大きな転換を意味しているので、当然ながら、現状のルールからの逸脱が伴う。

 

 

ただ、コンプライアンスには、インテグリティ(誠実さ)といったことも含まれるとなると、また違ってくるような気がする。

 

 

現状があまりに誠実さに欠けていた場合、それをひっくり返すことが、誠実な行為ともなりうる。

 

 

暴力を正当化する人たちの論理にも、「自分たちは悪を成敗するために行なった」といった主張がある。

 

 

ウルトラマンや仮面ライダーのようなヒーロー物は、悪を倒すために暴力的な手段を用いる。

 

 

自分を正義のヒーローだと思い込めば、暴力的な行為を自分の中で正当化できてしまう。

 

 

これは「革命」なのだと。

 

 

だが、暴力的行為はインテグリティ(誠実さ)の表れとなるだろうか。

 

 

コンプライアンスが法律遵守の枠を超えて捉えるべきとは思うが、そこに「正義」という言葉を入れてしまうと、暴力的行為が許容されてしまう。

 

 

暴力でなくても、「正義」の名の下とに、手続きを飛ばしたり、越権行為が行われたり、といったことは起きやすい。

 

 

もちろん、「インテグリティ」という言葉も、捉え方次第という面がある。

 

 

今の時点で成功している組織を持って、高い「インテグリティ」を維持していると称することもあるが、勝てば官軍的な面も否めず、時間が経つと、手のひらを返すような評価になることもある。

 

 

今回の狙撃事件で、各国首脳は、「言論を暴力で封じることは民主主義の脅威だ」と非難しているが、その各国とも自国に暴力装置としての軍隊組織(自衛隊も含めて)を保有しているし、警察組織にも武器の携帯を認めている。

 

 

あくまでも防衛のための武力だとしているが、フランス革命で民衆は自分たちを守るために、バスチーユ牢獄を襲撃したのだと思う。

 

 

暴力は、物理的な破壊だけでなく、言葉の暴力といったものもある。

 

 

むしろ、こちらの方が深刻ではないだろうか。

 

 

人を精神的に抹殺させるような言い方は、巷で日常的に行われている。

 

 

「〜ハラスメント」と呼ばれるものも暴力だ。

 

 

暴力的な言葉が、物理的な暴力を呼び起こすきっかけになることだってある。

 

 

執拗な精神的暴力を浴びてきて、耐えきれなくなって、物理的な暴力行為に及んでしまうこともある。

 

 

自傷行為とか、さらに進んだ自殺といったことも、自らに振るう暴力行為と言える。

 

 

暴力行為は、いくら世の中が進んでも無くならないどころか、形を変えながらも、どんどん増えていくのかもしれない。

 

 

色々と考え始めると、「暴力はダメだ」と一刀両断に言えるだろうかと自信がなくなってくる。

 

 

でも、私自身は、暴力が嫌いで、それどころか争いごと自体も苦手だ。

 

 

言葉の暴力だったり、制度の暴力が、物理的な暴力の前にあるはずだ。

 

 

そうなると、物理的な暴力の前にある「暴力」、人によっては「暴力」と認識されないものかもしれないようなものを、感じ取り、摘み取る、といったことが大事になってくる。

 

 

バスチーユ牢獄の襲撃は、それ以前に、体勢側による民衆に対する制度の暴力があったからだ。

 

 

本人が「暴力」と意識もしてないちょっとし発言を、ある人は自分への暴力と捉え、反撃としての暴力行為に及ぶこともある。

 

 

誠実さのない言葉、誠実さのない制度が、暴力を引き起こす。

 

 

とはいえ、どこからも咎められることがない完璧な言葉、ケチのつけようのない完璧な制度というものも存在しない。

 

 

そう、全てをフォローすることはできない。

 

 

世の中に起きたているあらゆる事を個人でもフォローはできないし、集団でもフォローできないだろう。

 

 

そして、恐らく、生成AIの基となるデータにしても、全ての事象をフォローしているわけではなく、漏れや抜けがあるはずだ。

 

 

ただ、少なくとも致命的な暴力に至る前に、そして言葉の暴力、制度の暴力となる前に、少しでも「誠実さ」を意識していくしかない。

 

 

そして、その「誠実さ」の鍵を握るのは「謙虚さ」だったり「礼儀正しいこと」だったりするのだろうと思うのです。