フェイクニュースというのは今に始まったわけではない。
情報戦が飛び交う状況においては、偽情報をわざと流すということはあり得る。
それが当たり前になっていると思っているため、本当のことを伝えても伝わらない、というか情報の真偽が分からなくなってしまう。
情報を誰に向けて発するかによって、伝え方も変わってくるし、伝える時には当然ながら、伝える側の意図が色濃く反映されている。
ただ、今は情報の拡散が、自分達のコントロールを超えているので、第三者には同じことについて2通りの情報が届くということもある。
直接には関係ない第三者の見聞きする情報も、自分が普段、どういう傾向の情報を得ているのかと言ったことで、無意識の間の取捨選択しているし、そうした傾向を解析してネットなどで情報を提示してくる。
そうなると、自分ではなるべく偏りのないように情報を得ようとしても、どうしても偏りが出てきてしまう。
対立する両者からの情報を得ようとしても、自分のところに届く情報は既にメディアによる偏りが反映されていることもあり、一方の主張が色濃く反映されている。
そうした情報に数多く接しているうちに、いつの間にか自分もどんどん偏ってしまっており、考え方も染まっていっている。
自分1人だけでなく、多くの人がそうなると、両方の言い分も聞こうと言った態度は、相対主義は悪に肩を持つ行為だ、と非難される。
そもそも善悪はそれほどはっきり分かれているのか、ということもある。
どうしても、何か事が起きると、自分達の気分をスッキリさせるためだけであっても、悪を特定しようとしてしまう。
そして、悪を特定する中で、もう一方に分かりやすい「善」を祭り上げることもしたりする。
また自ら「善」を演出して、自らが「善」の神輿に乗ろうとし、そのために「悪」を特定し、懲らしめようとする動きもあるかもしれない。
分かりやすい図式に持ってこようとする動きが多くなり、そうした情報を大量に浴びてくると、どんどん自分の考えも凝り固まる。
どちらの情報もしっかり取ろうとしても限界があるとなれば、一旦、事が起きている事象の情報から距離を置くしかないのかもしれない。
今は相対的に物を見るという行為自体が非難を浴びている。
確かに、「どっちもどっちだ」といった「大人」な対応が、事態をおかしな方向に進ませてしまうこともよくある。
だが、対立するどちらともが巧妙な情報戦を繰り広げているような事象において、安易に一方に肩入れして良いのか、という気持ちがないでもない。
結局は、情報の真偽を確かめずに、盲信した自分がバカを見ると言ったことになりはしないだろうか。
新聞やネットのニュースを見ながら、そんなことを思ったりしたのです。