コロナは社会の見え方の変更も余儀なくされる。 | こんちゃんの「社会世相を斬って、見てみる」

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身近な話題から時事問題まで、自分の感性の働きから感じた事、考えた事を、斬って、見てみる。

コロナ禍によって、自分の持つ繋がりが幻想だったと気が付くこともある。

 

 

コロナに対する恐怖心や、それに対する心構えが、社会というと大袈裟かも知れないが、集団の新たな分断要素として上がってきているようにも思う。

 

 

コロナ対策で政府や自治体も色々とルールと作っているけれど、自分の生死に関わることだと、そのルールでも不十分だと感じる人もいれば、やり過ぎだと感じる人もいる。

 

 

政府や自治体の出すルールだけでなく、もっと内輪の世界の不文律なルールも揺らぎ始める。

 

 

今まであったルールも、自分たちの幻想の繋がりを前提としたものに過ぎなかったのかもしれない。

 

 

実はもう一つ書いているブログに、同じようなことを前日書いたことに気がついた。

 

こちらのブログが社会世相について感じていることを書いていて、もう一つの方は、もっと内面的なこと、自分にとっての生き心地といったことをテーマにしている。

 

 

社会のあり方は自分の内面にも当然ながら影響を与える。

 

 

ただ、社会には明文化されているか否かに関係なく、ルールとかコードといったものがあって、それが社会を形作り、人間社会を運営している面がある。

 

 

そうしたルールとかコードといったものに対しての意見、賛意、反論などが、社会世相を語るということにもなるんだと思う。

 

 

だが、そうしたルールやコードの大規模な書き換えを余儀なくされた時、自分の内面に立ち戻らざるを得なくなる。

 

 

自分がコロナに対してどう思っているのか。

 

 

どんな怖がり方をしているのか。

 

 

「怖い」と口にしているが、実は「大したことない」とたかを括っているかもしれない。

 

 

そうした自分を見つめる作業を通して、自分が所属している社会の変更を余儀なくされるかもしれないし、それによって社会の見え方も大きく変わらざるを得ないかもしれない。

 

 

コロナによって社会が新たな分断要素を抱えた時、今までにもあったけれど見えていなかった(見ようとしなかった)分断もあからさまになってくる。

 

 

きっと、再構成されるまでは混沌とした状態が続くかもしれない。

 

 

混沌とした状態にあっては、否が応でも自分を見つめざるを得ないのではないか。

 

 

そんなことを思ったりもするのです。