「やり手」と言う名のパワハラ野郎たち。 | こんちゃんの「社会世相を斬って、見てみる」

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営業成績が優秀のためにどんどん出世する、というのはどこの会社でもあることだろう。

 

 

その営業成績というのがどうやって築き上げられたのかによって、そうした人物が上に立った時に問題になるかどうかはある程度は分かるのかもしれない。

 

 

自分の、あるいは自分の預かる部署の営業成績をとにかく上げるために、社内にかなり無理を言ったり、他の部署を犠牲にしたり、場合によっては自分の所属する部署の人間ですら犠牲・踏み台にしてのし上がる人もいる。

 

 

そうやってトップまで上り詰めた人が果たして組織全体、さらに組織を取り巻く環境、さらに広くは社会全体について見通せるだろうか。

 

 

いくら口では社会貢献だと言っても、足元では社員が泣いているケースも多い。

 

 

そうした会社ではパワハラ、セクハラがまかり通ってしまっているかもしれない。

 

 

また、そうしたトップを「やり手」だと褒め上げるマスコミもいたりする。

 

 

そもそも「やり手」というのは、何を指しているのか?

 

 

単に無理を言ったり、押し込み営業をしたり、といったことをして営業が上がれば、それで「やり手」になってしまう。

 

 

そうであるなら、「やり手」という言葉をポジティブな意味合いにすべきでなく、「あの人は所詮、やり手でしかない」みたいにネガティブな意味合いを持たせてもいいかもしれない。

 

 

本来はそうした意味ではないのだとしても。

 

 

最近は「やり手経営者」なんてものには、もれなく「パワハラ」がくっついている。

 

 

社内を恐怖政治で染め上げるような人物を「やり手」だと持ち上げてはいけない。

 

 

もっと、パワハラについて厳しく問われるべきなんじゃだろうか。

 

 

人格的に素晴らしく、人望があり、パワハラと無縁のようで、しかも仕事の業績も素晴らしい人に対して、あまり「やり手」という言葉は使わない。

 

 

でも、本当の「やり手」はそういう人のことを言うのかもしれない。

 

 

安っぽい「やり手」なんていらない。