今朝の朝刊を読んでいたら、「知る」と「分かる」はどう違うのか? ということについて、先日お亡くなりになった大江健三郎さんの言葉が紹介されていました。

 

「知る」から「分かる」に進むと、自分で知識を使いこなせるようになる。その先には「悟る」があって、まったく新しい発想が生まれる。

 

ということでした。

 

私たちは何事かに向き合う時、すぐに「そんなことすでに知っている」という態度になることはないか? と問われたような気がしました。

 

あることを知っていたとしても、わかっていなければ何にもならないということなのかもしれません。もっと言えば、知っていると思っているそのことを何も知っていないことでもあるのでしょう。

 

物事の表面上だけをすくいとって、わかったような気になり、その「つもり」のモノサシであらゆるのを分別し、裁いていく。

 

親鸞聖人は、『歎異抄』のなかで次のようにおっしゃっておられます。

 

まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』後序)

 

つまり、私に真実など何もわからないということでしょう。なぜなら、無明煩悩にまみれた凡夫だからです。そのような私たちの世界はすべて「そらごとたわごと、まことあることなき」世界なのです。

 

にも関わらず、自らが得た知識や経験こそがすべてであるかのように自我を振りかざし、自他ともに傷つけるようなあり方をして迷い苦しんでいると仏さまの眼は見抜かれているのだと教えてくださいます。

 

大江さんはその先に「悟る」とおっしゃっておれますが、それは人間にはとてもかなわないことだと親鸞聖人は教えてくださいます。

 

そのような無明煩悩の我が身を知らせてくださる仏さまの智慧の眼、光、それこそ阿弥陀さまの本願である南無阿弥陀仏のお念仏だけが真実であると教えてくださっているのです。

 

私たちにとったら、南無阿弥陀仏こそ、なんだかわからないまやかしの呪文のように感じるのかもしれません。しかし、そのように受け取っている私の眼こそ、お念仏から、仏さまの教えから問われなければいけないのではないでしょうか。