私が日頃からお世話になっている武田定光先生から、聞いたこと、感じたことを言語化しなさいと教えられています。そのひとつとして、日記を書きなさいと教えていただきましたので、こちらで感じたことなどを書かせていただくようになりました。しかし、気づけば一年近く放置しており、怠惰な自分が本当に情けなく感じています。

 

再び書こうと思わさていただいたのは、先日、真宗会館の日曜礼拝(←クリックで動画へ)お話させていただく機会をいただいたことがきっかけでした。

 

仏法聴聞させていただいたことを言語化するということには、「書く」ということと、「話す」ということがあります。日頃、「書く」ということを避けてしまっている私にとって、「話す」ということを通して、いかに仏法が「私の問題」になっていないかを教えていただけました。

 

日々の生活の中で仏法聴聞させていただき、さまざまなことを感じ、それを法話としてお話しさせていただいているつもりですが、それがどうにも言葉になりません。仏法とは「わかる・わからない」ではなく、教えを通して、我が身の問題としてどういただくか、感じるかが大事なのでしょう。しかし、その感じたことが、私にとってどういう問題としてあるのか、どのような教えとして説かれているのか、そのことを確かめることがなければ、私の問題にならないということでしょう。

 

大事なことは、仏法聴聞を通して知らされる我が身、感じたことを確かめていく歩みこそが大事なのです。そのことをよくよく教えていただいた日曜礼拝でした。

 

また、何よりも法話をするということは、私が教える立場に立つことではなく、私も共に聞かせていただく立場であることを教えていただきました。座談会において、皆さんと共に語り合い、確かめ合うことの大切さを教えていただきました。法話がうまくできずに一喜一憂している私の傲慢な態度が知らされます。

 

仏法聴聞の歩みとは、共に求め、聞き、教えられ、確かめ合う、生涯を通しての終わりなき歩みなのです。そのことを改めて教えていただいた貴重な場に感謝致します。

 

合掌

 

 

 

先日、関わらさせていただいているある講座において、親鸞仏教センター研究員の青柳先生より、遠藤周作の『沈黙』について触れられていました。今までお恥ずかしながら遠藤周作の作品は読んだことがなかったのですが、そのときのお話が非常に印象的だったので、購入して読んでみることにしました。

 

 

読み始めると、物語に一気に引き込まれ、あっという間に読み終えてしまいました。そして、ここに真宗が流れていると強く感じました。

 

遠藤周作はクリスチャンですが、西欧的なキリスト教の信仰をどうしても受け入れることができずに、日本的な、自らのキリスト教信仰を模索していきます。その遠藤における葛藤と、そのなかで出遇ったキリストが、そして彼の信仰が見事に描かれた作品でした。

 

恩師武田定光先生が、「教えの言葉と向き合う際に、この表現は、自分の中の何を言い当てようとしているのか、と問うことが大事なのだ」とおっしゃっておられました。

 

信仰とは、むやみやたらに教義を信じ込むことではなく、自らを言い当ててくださっている教えの言葉に自らを学ぶことなのだと教えられました。

 

『深い河』のなかで、登場人物の大津というクリスチャンが、「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神はおられると思います」(6章「河のほとりの町」)と言って、神学校の指導司祭に怒られるというシーンが出てきます。

 

武田定光先生は、「阿弥陀さんはあらゆる世界に遍満しているものだ」とおっしゃっておられましたが、大津の言っていることは、まさにそのことなのではないでしょうか。

 

ちなみに、青柳先生から後日教えていただいたことですが、この大津という登場人物は遠藤の友人であった井上洋治という神父がモデルなのだそうです。そして、その井上神父はイエス・キリストと法然が重なるとおっしゃっておられたということです。ですから、遠藤周作におけるキリスト教の仕立て直しには、法然が少し関わっていると教えていただきました。

 

このような遠藤周作のキリスト教との向き合い方は、法然や親鸞の仏教との向き合い方に非常に近いものを感じます。どこまでも救われない、弱く脆く愚かな私を救う仏とは、如来とは、そして神とは一体いかなる存在なのか? 伝統的な教義だけに縛られるのではなく、自らが救われていく道を教えに真摯にたずねていった相がそこにはあります。

 

改めて、信仰とはいかなるものなのかについて考えさせられました。

 

それにしても、久しぶりに仏教書以外のものを読んだ気がします。とても刺激になりましたし、勉強になりましたので、これからも遠藤周作はじめ、哲学書なども読んでいきたいと考えています。オススメ本などありましたら、ぜひ教えてください。

 

 

 

 

 

境内の掃除をしていたときのことです。

 

親鸞聖人の行脚像に蜘蛛の巣がたくさんかかっていたので、拭き取っておりましたら、巣を壊された蜘蛛が一匹ポトリと下に落ちて逃げていきました。申し訳ないことだなぁとも思いましたが、そのままにはしておけず、綺麗に拭き取りました。

 

拭き取った雑巾を見ると、そこには蜘蛛の巣と一緒に、蜘蛛の死骸がありました。

 

蜘蛛は一生懸命に小さい身体を使って巣を作り、完成すればそこでジッと虫がかかるのを待っている。逃げた蜘蛛からしたら、一生懸命に作った巣をあっという間に奪われてしまい、たまったものではなかったはずです。いのちに関わる問題です。

亡くなった蜘蛛も、巣を壊されはしなかったけれど、おそらくジッとエサがかかるのを待ったまま、かからずにいのち終えていったのでしょう。

 

そんな蜘蛛の一生にふと思いがよぎったとき、「あなたは、どのように生きているのか?」と問われたような気がしました。

 

目先のことに追われ、日々慌ただしくあっという間に過ごしてしまっている私。

 

あれも足りない、これも足りないと不平不満ばかりで、満足を知らない私。

 

蜘蛛は一生懸命につくった巣に、たとえエサがかからなくとも、不平不満一つ言わず、ジッと待ちながらいのちを終えていったのです。それこそが本来あるべきいのちの在り方なのかもしれません。

 

今、与えられたこのいのちを精一杯生きること以外に、何があるというのか? 何が不足し、不満なのか? 「いま・ここ・わたし」のいのちに目覚めよ!と蜘蛛から問われたように思います。

 

その蜘蛛たちは、「南無阿弥陀仏」の世界を知らせる大事な存在だったのでしょう。

 

にも関わらず、またあっという間にあちらこちらに張られる蜘蛛の巣に、ため息が出る愚かな私です。どこまでも相対分別の眼で、自分にとって都合がいい、悪いと分別しながらしか生きられない私です。

 

そんな私を南無阿弥陀仏から問い、知らされる生活こそが大事なのだと教えられます。

 

 

先日、父方の伯母が還浄され、お通夜と葬儀に参列させていただきました。

日頃、僧侶として多くの方々のご葬儀を勤めさせていただいておりますが、やはり身内の葬儀というものは、より深く感じるものがあります。息をひきとったとはいえ、今まで肉体を持っていた伯母が、次の瞬間お骨となったお姿には、何ともいえない感情が湧き上がってきました。

 

火葬場から戻り、還骨勤行が勤まりましたが、そこで「白骨」の御文が拝読されました。

 

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

伯母のお骨は、私たちに何を教えてくださっているのだろうか…。御文を拝聴させていただきながら、さまざまな思いが頭を巡りました。

 

久しぶりに従兄弟が顔をあわせましたが、一番年下の私が今年で47歳。その従兄弟の子どもたちのほとんどが、社会人となり大人になっている姿を見ていても、時の流れの速さを痛感させられます。

 

恩師・竹中智秀先生が、私たちは「死のない生」を生きていると教えてくださったことが改めて思い出されます。老いや死から目をそらし、あたかも死なないかのように自分をごまかして生きている私たちは、どこで本当に生きたと言えるのでしょうか。目の前のことに追われ、自分を見失い、あっという間に一生が過ぎ去っていく。

 

おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。(中略)一生すぎやすし。

 

このような生を生きているということと真向かいになる生き方こそ、「後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうす」ことであり、この有限の一瞬一瞬を念仏申すなかに大切に生きよと教えてくださっているのでしょう。

 

「死」という辛く悲しくも突きつけられる現実そのものが、私たちの相対分別の眼を破る大切な仏さまのおはたらきなのではないでしょうか。損得、優劣、勝敗、善悪等々…、そんな分別の眼で自分を、そして他者を分別し傷つけ、空しく過ごして生きている私たちに、そんな生き方を超え、我が身をあるがままに引き受けて生きていける、そんな広く尊い世界を伯母のお骨は訴えかけているようでした。

 

仏事の場とは、本当に大切なものを私に与えてくださる場であると痛感させられたご葬儀でした。

 

南無阿弥陀仏

 

 

今朝の朝刊を読んでいたら、「知る」と「分かる」はどう違うのか? ということについて、先日お亡くなりになった大江健三郎さんの言葉が紹介されていました。

 

「知る」から「分かる」に進むと、自分で知識を使いこなせるようになる。その先には「悟る」があって、まったく新しい発想が生まれる。

 

ということでした。

 

私たちは何事かに向き合う時、すぐに「そんなことすでに知っている」という態度になることはないか? と問われたような気がしました。

 

あることを知っていたとしても、わかっていなければ何にもならないということなのかもしれません。もっと言えば、知っていると思っているそのことを何も知っていないことでもあるのでしょう。

 

物事の表面上だけをすくいとって、わかったような気になり、その「つもり」のモノサシであらゆるのを分別し、裁いていく。

 

親鸞聖人は、『歎異抄』のなかで次のようにおっしゃっておられます。

 

まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』後序)

 

つまり、私に真実など何もわからないということでしょう。なぜなら、無明煩悩にまみれた凡夫だからです。そのような私たちの世界はすべて「そらごとたわごと、まことあることなき」世界なのです。

 

にも関わらず、自らが得た知識や経験こそがすべてであるかのように自我を振りかざし、自他ともに傷つけるようなあり方をして迷い苦しんでいると仏さまの眼は見抜かれているのだと教えてくださいます。

 

大江さんはその先に「悟る」とおっしゃっておれますが、それは人間にはとてもかなわないことだと親鸞聖人は教えてくださいます。

 

そのような無明煩悩の我が身を知らせてくださる仏さまの智慧の眼、光、それこそ阿弥陀さまの本願である南無阿弥陀仏のお念仏だけが真実であると教えてくださっているのです。

 

私たちにとったら、南無阿弥陀仏こそ、なんだかわからないまやかしの呪文のように感じるのかもしれません。しかし、そのように受け取っている私の眼こそ、お念仏から、仏さまの教えから問われなければいけないのではないでしょうか。