私が日頃からお世話になっている武田定光先生から、聞いたこと、感じたことを言語化しなさいと教えられています。そのひとつとして、日記を書きなさいと教えていただきましたので、こちらで感じたことなどを書かせていただくようになりました。しかし、気づけば一年近く放置しており、怠惰な自分が本当に情けなく感じています。
再び書こうと思わさていただいたのは、先日、真宗会館の日曜礼拝で(←クリックで動画へ)お話させていただく機会をいただいたことがきっかけでした。
仏法聴聞させていただいたことを言語化するということには、「書く」ということと、「話す」ということがあります。日頃、「書く」ということを避けてしまっている私にとって、「話す」ということを通して、いかに仏法が「私の問題」になっていないかを教えていただけました。
日々の生活の中で仏法聴聞させていただき、さまざまなことを感じ、それを法話としてお話しさせていただいているつもりですが、それがどうにも言葉になりません。仏法とは「わかる・わからない」ではなく、教えを通して、我が身の問題としてどういただくか、感じるかが大事なのでしょう。しかし、その感じたことが、私にとってどういう問題としてあるのか、どのような教えとして説かれているのか、そのことを確かめることがなければ、私の問題にならないということでしょう。
大事なことは、仏法聴聞を通して知らされる我が身、感じたことを確かめていく歩みこそが大事なのです。そのことをよくよく教えていただいた日曜礼拝でした。
また、何よりも法話をするということは、私が教える立場に立つことではなく、私も共に聞かせていただく立場であることを教えていただきました。座談会において、皆さんと共に語り合い、確かめ合うことの大切さを教えていただきました。法話がうまくできずに一喜一憂している私の傲慢な態度が知らされます。
仏法聴聞の歩みとは、共に求め、聞き、教えられ、確かめ合う、生涯を通しての終わりなき歩みなのです。そのことを改めて教えていただいた貴重な場に感謝致します。
合掌