八幡神が豊前国宇佐の地に現れた由来について諸説があり

 

⑴「日本書記」巻第一、神代上第三の条に

 

即ち日神の生れませる 三の女神を以ては、葦原中國の宇佐嶋に降り居さしむ。

 

とある豊前国宇佐嶋、すなわち、今の御許山、またの名は馬城峰に天降ったとする説

 

⑵欽明天皇の時代に、「宇佐郡辛国宇豆高島」に天降り、ついで「大和胆吹嶺」「紀伊国名草海島」「吉備国神島」と経て、「宇佐郡馬城嶺」にはじめて現われ、それより「比志方荒城辺」に移ったのを辛島勝乙目が祀って神託をうけたという説

 

⑶「比志方潮辺」すなわち宇佐郡の西北海岸地帯、今の宇佐市乙女にましまして、祟志津比咩が酒を奉献して祀った酒井泉社より、宇佐郡の瀬社へ移り、さらに鷹居社に移り、ここで神がすさびそれが治まってから小山田社に移ったという説

 

⑵オオタラシヒメとその子の八幡は、日本に入ると、清浄な場所として、姫は筑前の香椎に、榊よりもまさっている神籬として、杉をさかさまにして植え、そこを在所にしたという説

 

⑸八幡神は唐より日本に帰り、筑前の香椎を根拠地にして新羅を伐った。石を帯のようなものにつつんで、裳の腰に結び着けて、新羅を伐って戦いに勝って帰るまで出産しないように神に祈り、凱旋してから四所の君が生まれ、聖母大帯と四所の君が、日本国の朝廷を掌握し、筑前国穂浪郡に集まり住んだので大分宮といい、白石を御神体にした。

 

大帯比売より出て、一所は筥崎、一所は大分宮、一所は穂波の山中に入って多宝塔に分身す。以上は天慶の神託であるといい、さらに延喜二十一年六月の筥崎の神話を記し、大分宮について、大分宮が筥崎の本宮であるとし、香椎を母、住吉を父とし、幼少のころ、志賀島と点々と移り住んだとする説

 

以上「筥崎縁起」「住吉縁起」「宇美八幡縁起」「西宮縁起」「香椎縁起」「大隅宮縁起」などによる伝説・神話である