投票先を決める前に中学レベルの公民の復習くらいしておこうか2 | Hidy der Grosseのブログ

投票先を決める前に中学レベルの公民の復習くらいしておこうか2




●それは、契約国家論に立つのでなければ、政治を変えるという事業が暴力沙汰になってしまうから、という理由です。 つまり、「国家というのは、みんなで約束して作ったものなのだから、国家のルールはみんな守ろう。 もちろん、その前提として、ルールの作り方が公正であるよう 制度的に保証しよう。 それに、どんなに大多数が望んだとしても、少数派の権利がむやみに奪われることの無いよう、国家の行いうる範囲には制限を設けよう」という合意が存在しなければ、「俺たちの意見を通させろ」「いや、こちらの提案こそが社会の決まりごととして認められるべきだ」という争いを平和的に解決する道筋が失われてしまうから、というわけです。 実際、日本と世界の歴史を見ても、契約国家論を理論的な土台とした民主政治が根付く以前には、権力争いというのは「食うか食われるか」の命がけの闘争でしたし、また、民主化されていない社会では、現在でもなお、暴力 対 暴力のいさかいでもって政治の主導権が争われています。


したがって、民主主義を標榜する国家では、その国家の起源について今では次のように考えることにしているのです。


「確かに、歴史的な事実として、社会契約を結ぶというイベントがあったわけではない。 けれども、この国家は『社会契約の結果生まれました』という呈で存続してゆこう。 具体的には、①人の自由と権利は、誰から与えられたものでもなく、生まれながらにして持っているものだと認めよう。 ②有権者の多数が政策の変更を望めば その意思が実際の政治に反映されるように、制度的に保障しよう。 また③、国家諸機関の仕事は この国家の領域に暮らす人々をより幸せにすることなのだ、という国家の目的を外れてはいけないのだということを確認し、 そして④、他の個人の権利と衝突しているわけでもないのに 個人の権利を制限したり自由に制約を加えたりすることは 控えよう。 これらの約束事を遵守することによってはじめて この国家の正当性、国民に法を守ってもらうための合理的な説明が 確保されるのだから」。




●「そんなことよりも、生活が苦しいのだから。景気を良くして欲しい。 現在の金融緩和策を続ければ、そのうち好況になるのか? それとも、福祉国家への道を歩み、内需を拡大するという、日本社会の根本からの転換が必要なのか? 社会契約論なんていう難しい話には興味ない」「めんどくさい理論なんてどうでもいいから、社会政策について論じてくれ。 年金はどうなる? 医療はどうなる?」「経済を上向かせるためにも、少子化対策が急務。 『夫と専業主婦と子供が2~3人』という数10年前までの家族モデルを復活させようという政策が有効なのか? あるいは、中心となるのは家族だということは大前提として、『子育ては社会の仕事でもある』というコンセンサスの下に 公の役割を充実させてゆくのがよいのか? 自由がどうの人権がどうのという空論はノー・サンキュー」。


そんな声も聞こえてきそうですが、いやいや、お待ちください。 学習塾で受験国語の指導をしていて ひしひしと感じるのですが、できない子ほど、手っ取り早く答えを教えてもらいたがる。 もう少しましな子は、本文中のどの文言を根拠として正解を出すのか、というところにまで考えが及ぶ。 できる子になってくると、「正解を出すための根拠となるフレーズを見つけるための方法」という、「他の文章問題を解くときにも応用できる 一般的なスキル」を意識することができる。


このブログ記事・動画の初めのほうでも述べましたが、中学レベルの理科の知識を根本原理的から理解していれば、そこから応用を利かせることができますし、そうすればインチキな浄水器やら「健康食品」やらには引っかからないはずなのです。 知識を表面レベルで覚えているだけだから、そこから導き出すことのできる発展的な結論にたどり着くことができない、あるいは、そもそも、知識を忘れてしまうのです。


自然科学分野に限らず、社会科学分野についても。同じです。 政治に関しても、再三の指摘になりますが、基本が重要。 この参議院議員通常選挙において、どんな政党、どんな候補者に一票を投じるべきか。 政治というものの根本が正確に理解できてさえいれば、答えはおのずと見えてきます。 以下では、そのあたりにまで話を進めていきましょう。




●今度の参議院選挙の注目点の一つは、改憲勢力が2/3を超える議席を確保するかどうか、です。 もし、自由民主党を筆頭とした改憲派が憲法改正の発議に必要な議員数を確保すれば、改憲に向けて動き出すことになります。 そのときに議論のたたき台になるのは、自由民主党の改憲案です。 

日本国憲法改正草案

https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf


改正草案Q&A

https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf


この『改正草案Q&A』(以下『Q&A』と略)の中の「Q14」では、次のように述べられています。

【引用開始】 現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。 【引用終わり】

すなわち、自由民主党は、契約国家論の前提となっている天賦人権説=自然権思想を否定しているわけです。   このような考えを反映して、「改憲草案」では、このブログ記事の前段(動画では「1」)でも引用した前文の一節「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」が、丸ごと削除されています。


ですから、「国家が国民の権利を制限できるのは、それによって制限された以上の福利を国民が受けられる場合に限る。 Aさんの権利とBさんの権利とが衝突し、マイナスサムの関係になってしまうようなときに、国家が介入してウィン・ウィンの関係になるように調節するのだ」という、近代憲法の基本原理も破棄されています。

【『Q&A』の「Q15」より引用】 従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため、学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。しかし、街の美観や性道徳の維持などを人権相互の衝突という点だけで説明するのは困難です。

今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、その曖昧さの解消を図るとともに、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。 【引用終わり】


以上、自由民主党の改憲草案では自然権思想や それを基盤とした社会契約説的国家観という、近代民主主義思想が根本から否定されていることを見てきました。 しかしながら、この憲法草案を起草した人々が、単に近代民主主義を放棄したいと思っているばかりか、「そもそも、近代民主主義とはいかなる思想であるのかを理解できていないのではないか」と疑わせるような問答すら、この「Q&A」には出てきます。

【「Q3」より引用】 現行憲法の前文には、憲法の三大原則のうち「主権在民」と「平和主義」はありますが、「基本的人権の尊重」はありません。 【引用終わり】

先ほども引用した前文の一節「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」には、確かに「基本的人権の尊重」という文言こそ出てはきませんが、それこそ中学レベルの社会科をしっかりと勉強してさえいれば、「ここには、『国家というのは、国民の基本的人権をよりよく保障するために、国民から仕事を任された組織なのであり、その基本をはずしてはならないのだ』ということが書いてあるのだな」と理解できるはずです。


ここまでは、評価を抜きに、事実として「近代民主主義諸国家の共通理念である 自然権思想や契約国家論的国家観を、自由民主党は破棄したがっている」ということを指摘してきました。   「それのどこが問題なんだ。 国家の権限の由来について憲法がどう規定していようが、それで生活が変わるわけじゃあるまいし」と考える人もいるでしょう。 ところが、自体はそう単純ではありません。 次に、自由民主党の考える方向での改憲論議が進んでゆくと、どのような帰結が待っているのか、ということについて考えていきましょう。




この記事・動画では、「自然権思想=天賦人権説や 社会契約説=契約国家論というような 近代民主主義の根本的諸原理を破棄するのは、良いことなのか、それとも 悪いことなのか」という結論は示しません。 人にはそれぞれ異なる価値観がありますから、私にとって良いことが、あなたにとって悪いことかもしれない。 けれども、物事を表面的にしか捉えず、「価値観が違うから」と言って深く考えることを投げ出すのは、賢い行為ではありません。 「自分の価値観では こちらの選択のほうが一次的・皮相的には良さそうだが、では、その選択肢が実行されたら、その結果どんな事態が起こるのか。 いかなる波及的効果が見込まれるのか」ということについて、突き詰める必要があります。 ある価値の獲得にとって 短期的あるいは局所的には有効なオルタナティブが、長期的・大局的には むしろ期待とは反対の結果をもたらす、ということはざらにあるからです。


自由民主党の改憲草案やQ&Aに示されているアンチ近代民主主義的な思想、その思想に沿った改憲が行われたら、では一体、どのような帰結が予想されるでしょうか?


まず、日本の対外的安全保障を確保するという営みが、複雑化します。


先に成立した一連の安保法制について、賛成派の人々は、次のような根拠付けをします。 「日本一国の力で、軍事強国化する周辺諸国の脅威に対抗することは、できない。 だから、自由と民主主義という価値を共有する諸国で、協力し合って安全を確保するのだ」。 なるほど。一理あるかもしれません。 ところが、自由民主党の望む方向での改憲が実現すれば、日本はもはや「自由と民主主義という価値を共有する諸国」の一員としては、認めてもらえなくなってしまいます。


そもそも それ以前に、改憲が現実味を帯びてくれば、国外メディアも、自由民主党の改憲草案に注目します。 自然権思想や契約国家論を排除しようという議論が行われていると海外に知られるだけで、日本にとっては外交面での大きなマイナスです。 近代民主主義思想に真っ向から対抗する政党が与党になっているという事実が公然化すれば、危険国家視されかねません。   「なにを大げさな」と感じる向きもあるかもしれませんが、いわゆる「先進諸国」の 自由と民主主義に対する姿勢に関して、あまり舐めてかからないほうが良い。 ナチスの突撃隊長を務めていた経歴のあるWaldheim氏がオーストリア共和国の連邦大統領になったとき、彼は大統領でありながら多くの国家からペルソナ・ノン・グラータにされ、ろくに外遊もできなかった。 オーストリア共和国はにとって外交上の大きな痛手です。 独裁国・半独裁国ならともかく、OECDに属するような 欧米を中心とした民主主義国では、自由・人権・民主主義の諸問題について、これくらい厳しい態度で臨んでくるわけです。


「米国だって、欧州諸国だって、これこれの問題を抱えているじゃないか」と反発したくなる気持ちも、分からないではありません。 私自身、大学院でドイツ現代政治を専攻した身ですから、一般の方以上に、欧米諸国の政治の弱点を承知しています(「欧」と「米」とでは、弱点の内容もレベルも異なりますし、「欧」の中でもさらに・・・(以下略))。 けれども、「到達点は不十分だけれども、自由と人権をより豊かにする、民主主義をより充実させる、という方向に世界を進めていこう」ということをコンセンサスとしている民主主義諸国にとって、その目指す方向とは逆行する流れは 見過ごすわけにはいかないものなのだ、という事実は、いやでも認識しておくべきでしょう。 各国にも、「国民の権利なんてわずらわしい」との本音を隠し持っている政治家はいるのかもしれませんが、それを公言したら、政治家としては やっていけなくなる、少なくとも、極右主義者として危険視される――というのが、今日の世界の民主主義国の到達点なのです。 そして、日本も、「自由と民主主義という価値を共有する諸国」の仲間として、共同で自国の安全を担保しようというのなら、その高さの水準を満たすことを要求されるのです。




●投票も進んでいますので、残りは手短に・・・。


日本は、ドイツ・オランダ・北欧諸国に比べて、①労働者の立場が弱く、②大企業の下請けに対する締め付けがきつく、③社会保障の水準が低く、④環境規制が甘く、⑤子育て支援が充実しておらず・・・、といった特徴を持っています。 これも、「55年体制の成立以降 ほぼ一貫して与党であった自由民主党が、改憲草案やQ&Aにみられるような根本理念の下に政治を行ってきた結果だ」と考えれば、納得がいきます。 そして、自由民主党の理想とするような新憲法が制定された暁には、こうした傾向が強まるということも、当然に予想されます。


日本は、少なくとも今のところ民主主義国であり(民主主義の成熟度はともかくとして)、国民の(相対)多数派に選ばれて その自由民主党が政治を任されてきたわけですから、上に見るような日本の特徴も、ありといえばありなのかもしれません。 けれども、これから先、将来も同じようなやり方を続けていけるものなのかどうか、そこについては熟慮するほうが良いでしょう。


自由民主党が目指す方向での憲法改定が現実のものとなれば、また、そこにまで至らなくても、自由民主党が圧倒的に勝利すれば、その先には、①「伝統的」な家族観に基づく政策が継続され、少子化にストップをかけることができず、市場が縮小し、 ②企業vs労働者 また 大企業vs中小・零細企業という利害衝突に対して、「社会全体の福利を最大化する」という理念を元に利害調節をすることもなく、したがって内需が伸び悩み、 ③経済は下向きになり、 ④税収が落ち込み、よって社会保障は低水準にとどまり、将来不安から庶民は財布の紐を引き締め、結果として有効需要が拡大せず → ③ → ④ → 、という無限ループが待ち構えています。 これは、バブル崩壊後の20年間 日本が景気回復できなかった構造的問題です。


繰り返しになりますが、人にはそれぞれの価値観がありますから、「女が大学出て、『自分の人生を充実させたい』だの言うのは生意気だ。 託児施設の充実なんぞを公に要求するな」「社会保障などというのは甘えだ。 税金や社会保障費を取られても、経済が活性化すれば、持っていかれた以上のリターンがあるだって? そんなの関係ねえ。 働きもせずに食っているやつが許せない」と考えるのも、また自由です。   けれども、「自分の考えが いかなる結末に結びつくのか」 「自分が一番実現したい価値は何で、その価値を実現するには、今自分が考えているやり方が本当に最善なのか。 ほかにはないのか」ということについては、しっかりと考えたり調べたりしておきたいものです。


例えば、これは日本共産党なども提唱している方向性ですが、北欧諸国では 自民党流の政治とは対照的に、①労働者保護を手厚くし、②大手企業の下請け企業に対する不公正な要求を制限し、③社会保障を充実させ、④自然環境に目配りした政策を行い、⑤家庭を大切にしながらも、次世代の担い手を育てるのは公的な責任でもある、との立場で家族政策に取り組み・・・、という指向性で政治を進め、結果として経済的にも成功して、世界でも最も豊かな諸国のグループに入っています。   もっとも、付加価値税(日本でいう消費税)が高いとか、海外から流入している労働者を安く使っているとかいうような側面もあるわけで、完全に理想的な社会、と評するわけにはいきません。


が、「この道しかない」などと単純に決め付けるのではなく、「別の道もあるのではないか」と余裕を持って考えることは、大切ではないでしょうか。




●おしまい