投票先を決める前に中学レベルの公民の復習くらいしておこうか1 | Hidy der Grosseのブログ

投票先を決める前に中学レベルの公民の復習くらいしておこうか1

投票先を決める前に

中学レベルの公民の復習くらい

しておこうか


●7月10日(日)は参議院通常選挙の投票日です。 各紙の世論調査を見ても、投票先を決めかねている人が多いようです。 また、すでに「投票には行かない」と決めている人や、当日まで迷った挙句、結局棄権する人も多くなりそうです。 「困ったときには、基本に返る」。 これが大事です。 スポーツにしても楽器にしても料理にしても勉強にしても「上手な人」ほど基本を大切にしています。 というわけで、中学レベルの社会科(公民分野)の復習をしておきましょう。




●そうは言っても、「学校の勉強なんか、実社会では何の役にも立たない」と思う人も多いかもしれません。 しかしながら、その考えは8割方的外れです。 たしかに、公教育における教育内容には、無駄もあります。 私自身塾講師をしていますので、それに関しては、一般の方々以上に、リアルに理解しています。


とは言うものの、第1に、学校で扱われる学習項目の7~8割は、「実生活に役立たせようと思えば、役立たせることができる」ものです。 【例えば】、インチキ浄水器やインチキ健康食品にだまされて大金を払う人は後を絶ちませんが、それらの詐欺商品のほとんどは、中学程度の理科の知識があれば「ニセモノだ」と見抜くことが出来る物です。【例終わり】 問題は、「学校での勉強は、役に立つのか、立たないのか?」ではなく、「学んだことを役に立たせようという意思があるのか、ないのか?」であり、また「役に立たせることの出来る応用力を持っているのか、いないのか?」なのです。


また第2に、この世に暮らしていくうえで直接には使えない「無駄知識」ですら、学び方を工夫しさえすれば、自分の知的能力を向上させるための素材となります。 それは、「物事を分類し、体系立てて記憶するための練習」だったり、「現象を分析して原因と結果の関係をとらえるための訓練」だったりします。


そして最後、第3に、中学・高校水準の勉強だと基礎レベルでしかないので、日々の暮らしに、あるいは、投票という一種の政治的判断に、直接生かすことは出来ない。 けれども、その基礎の上に、より高度な学びを積み重ねていけば、よりよい暮らしに結びつけることが出来る。 より賢い政治判断を下す助けになる。 そういうこともあります。 【例えば】、「とりあえず日本語を使って、働き、買い物をする」ためには、現代日本語文法の知識は不要です。 しかしながら、現代文法の知識は、古典文法を習得するための土台です。 そして、古典文法を身につければ、古典文学を読むことが出来る。 古典文学を読めば、「夫と妻と子どもが、同じ姓を名乗って、一つ屋根の下で暮らしている」というのを日本の伝統的な家族モデルとする言説がいかに嘘っぱちかがわかる。 「日本的な家族のあり方を破壊する」との理由付けで夫婦別姓に反対するインチキ政治家・エセ学者にだまされずにすむ、というわけです。【例終わり】 (私はここで夫婦別姓制導入の是非について論じているわけではありません。 ただ、確かな事実として「『伝統』やら『歴史』やらを反対論の根拠にしている者は、無知であるか、嘘つきであるか、あるいは、無知で且つ嘘つきである」と指摘しているのです。) 




●というわけで、中学公民科の復習ですが、このブログ記事・動画では、「国家とは何か」というテーマに絞って論じます。 「どの政党・候補者に投票するかを決めるには、『国家とは何か』などという『そもそも論』は遠すぎて役に立たない」と感じる人も多いでしょう。 けれども、繰り返しになりますが「何事も基本が肝心」。 ここを間違えると、日本を根本から駄目にするような方向を目指している政党・候補者を選択しかねません。




●国家とは不思議な組織です。 この世には多種多様な組織が存在しますが、国家ほど強制性の強い組織は、他にありません。


【まずは】、脱退の自由について。 地域の文化サークルやアマチュアスポーツチームならば、入るも辞めるも自由です。 会社ともなると、生活があるので、そう簡単に辞めるわけにはいきませんが、それでも、現在では半分くらいの人が、一生のうちで一度は勤め先を替えているようです。 それに対して、国家の帰属は、簡単には変更できません。 日本も含め、世界中のどの国家でも、程度の差こそあれ、帰化するには厳しい要件を満たす必要があります。 というよりも、そもそも、他国家への帰化なしに、それまでの国籍を放棄するということが不可能です。 「国民としての権利なんか要らないから、俺をこの国家の構成員のリストからはずしてくれ」というわけにはいかない。 あくまでも極端な話ですが、次の職場を決めもしないで勤めを辞め、物乞いなりゴミ箱漁りなりをして生活することは可能ですが(ただし、「浮浪罪」に該当するので、処罰される恐れあり。 現実には、それほど厳しく適用されているわけではありませんが・・・)、国家に関しては、勝手に抜けさせてはもらえません。


【次に】、強制性の話です。 A国の領域内では、A国国籍を持っていない人にも、A国の法が適応されます。 【例えば】あなたが日本国籍を放棄できたと仮定して、それでも、①あなたが医師免許なしで医療行為をしたり、薬としての認可を受けずに薬用効果をうたった商品を販売したりすれば、処罰の対象です。 「売り手と買い手が合意しているのだから、日本国は横から口を出すな」との言い分は、通らないのです。 また②、法で定められた限度を超えた高利で金を貸せば、超過分の利子は無効とされるばかりか、利率次第では刑事罰を受ける可能性まであります。 「相手が『利息はいくらでも払う』と言っているのだから、余計な干渉をするな」と言い募っても、認めてはもらえません。 そもそも③、外国籍の人だろうが、日本で勤めて給与を受け取れば、所得税を持っていかれますし、自分で事業を起こして稼げば、法人税を取られます。 「俺には公共サービスなど必要ない。 強盗に襲われても、警察は放っておいてくれて良い。 災害に見舞われても公的支援は受けない。 だから税金なんぞ払わない」などと言っても、無駄です。 頑張ったところで差し押さえを食らうだけです。【例終わり】


国家という存在は、一体 どんな根拠があって、これほどまでに人に「無理強い」する権限を持っているのでしょうか?




●国家がその領域内において振るうことのできる強制力、その力の根拠を説明する理論として民主国家に共通して認められているのが、「社会契約説」「契約国家論」などと呼ばれる学説です。 以下、「契約国家論」の中身をおさらいしましょう。




●契約国家論では、まず、国家の存在しない「自然状態」を想定します。 この状態においては、人は自由です。 表面的には、完全に自由です。 自分のやりたいことを好き勝手にやればよい。 ところが、この世に暮らしているのは自分一人ではない。 他人もいる。 そして、自分の自由と他人の自由とが衝突する、という事態が発生する。 食べ物をめぐる争いとか…。 腕力の強いほうが勝つ。 弱いほうは徒党を組んで立ち向かおうとする。 すると相手もやはり、集団を形成して対抗する。 こうなるともう、「人は自由」どころではありません。 血で血を洗う戦い、命の危険すらあります。 困ったもんだ。 さてどうしよう。


そこで人々は考えた。 「この地域に住んでいる者全員で 一つの集団を作ろう。 そうすれば、『自分のやりたいことを好き勝手に』はできなくなる。 でも、今だって敵に殺されるかもしれないような状態で、『好き勝手』を出来ているわけじゃあない。 やりたいことをある程度制限されても、今よりずっとずっと幸せになれそうだ。 『人を殺してはいけない』とか『他人の持ち物を力ずくで奪ってはいけない』とか決めよう。 そして、それらの決まりを守らないやつには罰を与える権限を、集団に持たせよう」と。   この集団こそが国家である、と契約国家論では考えるのです。


この契約国家論を手短にまとめたのが、リンカーンのゲティスバーグ演説の有名な一節「government of the people, by the people, for the people」であり、日本国憲法前文の中の一節「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」です。 すなわち、①生まれながらにして自由であり人権を有する人々が、自分の権利をより良く保障してもらうために国家を作り、国家に権限を託したのであり=government of the people=そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、 ②したがって、政治を行う者は国民から「あなたに任せたよ」との信を受けた人でなければならず=by the people=その権力は国民の代表者がこれを行使し、 ③そして当然、国家は「法で定めさえすれば何でもできる」わけではなく、国家の仕事は国民の幸福を増大させることに限定されるし、権利の制限は少なくとどめるべきである=for the people=その福利は国民がこれを享受する、 というわけです。




●このストーリーは、仮構=フィクションであり、史実ではありません。 スイスの原初同盟やサンマリノ共和国が成立する際には、もしかしたら、本当に地域住民が全員集合して約束を結んだのかもしれません。 けれども、人口が数10万とか数100万とかを超えるような社会では、そのようなことは不可能です。 一箇所に集まるのではなく、投票という形式で「これこれの権限を持たせて国家を作ろう」という提案への賛否を問う、というのはどうでしょう。 顔を合わせて細部を詰めて決めるというやり方以上に、なおさらうまくいかないでしょう。 なぜなら、全員一致が契約成立の前提であるからです。 「全員一致などというまどろっこしいことを言わず、多数決にすればいいじゃないか」と思う人もいるでしょうが、いやいや、そこを勘違いしてはいけません。 今問題となっているのは「多数決制の政治共同体である国家というものを設立すること それ自体の是非」であり、そこに多数決制を導入するわけにはいかないのです。 それを認めてしまうと、「一人ひとりの構成員が、自ら、自分の幸福をよりよく実現するために、自分が生来有している自由と権利を、あえて国家に託したのだ。 だから、国民には、国家が託された権限を越えた横暴な振る舞いをしているのではない限り、国家の定めに従う義務があるのだ」という、契約国家論の大前提が崩れてしまいます。


そのうえ「仮に、地域の住人が一堂に会して社会契約を結ぶという出来事が現実にあったとしても、次の世代はどうするのか。 毎年新成人を加えて、新たに社会契約を結びなおすのか」という問題まであります。 有名な社会契約論者の一人・ルソーも、その著作『社会契約論』の中でこの問題については説明に苦労しています。 「大人になるまで国家の恩恵を受けて育ってきたのだから、成人年齢になったら、その国家の主権者としての自らの立場を認めるのは当然」とかいうような、あまり説得力のないことを述べています。 あくまで推測ですが、本人も「もうチョイ明瞭な説明ができんものか」と悩みながら書いたのではないだろうか・・・。


とはいえ、「社会契約説」「契約国家論」以外に、国家の持つ権能の由来を合理的に説明できる学説は、ありません。 少なくとも、現在までのところ。 この学説への対抗理論としては「王権神授説」がありますが、これは「契約国家論」以上にフィクショナルです。 ロックの『市民政府二論』の第二論文冒頭には第一論文のダイジェストが掲げられていて、これが王権神授説批判なのですが、乱暴にまとめると、次のようなことが述べられています。


「大昔に神様から王様に統治の権限が与えられたというが、本当かどうか怪しいもんだ。   もしも王権神授が史実だとしても、現実世界には数多くの王家があって、どの王家が神に統治を託された家系なのかは、今ではもうすっかり謎になっちゃった。   仮に、この地球上の土地が分割されて複数の王家に託されたのだとしても、その後に領土争いがあって、本来どの土地がどの王家に帰属するのかなんて、さっぱり分からなくなっちゃってるよね。   それに、一つの王統の中でも身内争いがあるから、『我こそが正当な支配者なり』という言説には説得力がないよね。   そもそも、今の王様が太古に王権を親授された人の子孫・正当な後継者だってこと、本当に証明できんの?」。


日本においても、「南朝と北朝のどちらが正統か」論争があります。 また、そもそも、「古代日本では、天皇(大王おおきみ)の地位が、親から子へ、子から孫へ・・・、と引き継がれていく習慣が確立されていなかった」というのが有力な学説。 つまり、まともな歴史学者からすると、「一つの血筋で天皇の位が代々継承されてきた」というのは、単なる作り話。 「神代の昔から続く権威ある家系だから」なる根拠付けでもって特定の家系に支配の特別な権限を認めることなど、不可能なわけです。


社会契約もフィクション、王権神授もフィクション。 ならば、どちらのフィクションを採用したほうが合理的か。 国家の持つ 他の組織にはない 特別に強力な権能の理由付けとして、どちらの説明を取るほうが、その国家の国民の福利をより豊かにしうるか。 さまざまな論争、そして時には力同士の争いを経て、今日民主国家と呼ばれる諸国家では、契約国家論の立場を取るに至っているわけです。 それには、もちろん「わけ」があります。 その「わけ」とは一体何でしょうか?


この続き、「2」は、7月9日(土)の深夜から7月10日(日)の早朝にかけてアップします。