たくさん人を殺した人は死刑。

これで、日本の社会は安心なものになるのでしょうか?

この問いを考える本に出合いました。書き留めた部分を何度も読み返すために貼り付けます。

一緒に考えてみましょう。死刑について。

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社会の側の怠慢を問わなくてよいのか(P37)

1999年 山口県光市 母子殺害事件

2012年 死刑確定  加害者18歳 彼の生育環境

 本来なら、そういう状況に置かれている人たちを、私たちは同じ共同体の一員として、法律や行政などを通して支えなければならないはずです。しかし、支えられることなく放置されていることがあります。

 放置しておいて、重大な犯罪が起きたから死刑にして、存在自体を消してしまい、何もなかったように収めてしまうというのは、国や政治の怠慢であり、そして私たちの社会そのものの怠慢ではないでしょうか。・・・根本的な問題が解決されていない以上、同様の犯罪は繰り返されます。これは行政や立法の不作為と言ってもよいでしょう。

 

人を殺してもよい社会とするのか(P41)

 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問い

 刑罰を科す側は倫理的に優位に立っていなければならないでしょう。でなければ、刑罰としての意味を持ちません。お前が殺したのなら、自分たちも殺すというように、同じレベルにまで国家や社会が堕落してしまっては、法制としての刑罰を科すことは倫理的にできなくなってしまうはずです。

 

政治日程との兼ね合いで命が奪われる(P42)

 死刑執行がどのように決められ、どのように行われているのかなどの情報の開示がない・・・実際には、誰にいつ執行するか、どの時期に何人執行するかなどは、政治と官僚組織の中でとてもシステマティックに議論され、しかも、ほとんど恣意的に決められています。

 

意味を失う犯罪抑止効果(P45)

 日本のように死刑制度がある国では、自暴自棄となって通り魔的な殺人を犯した犯人が「死刑になりたかったからやった」と述べる事件が、2000年代に入り相次いで起きています。・・・例えば、大阪教育大学藤久池田小学校で8人もの児童の命を奪った事件(2001年)の犯人が、自分の犯した罪を反省した、ということはなかったでしょう。

 

暴力で言うことを聞かせる社会の危険性(P51)

 本来、人間の社会の中では、自分の意思を実現させたい時、相手と話し合いをしなければなりません。自分がこうしたいと思っても、そうしたくないと思う人もいる。その時には、相手の意見を聞いて、相手を説得したり、あるいは、自分が譲歩したりという様々なプロセスを経て、たとえ少しであっても、自分の意思が実現できる方向に動いていくわけです、」民主主義的な社会の最も基本的な仕組みとも言えます。

 ところが、暴力というのは、そうした複雑なプロセスを経ることのない、非常に単純な方法です。相手を力でねじ伏せて自分の言うことを通してしまう。

 

死刑制度がないことが前提だったら(P54)

 例えばフランスは40年前の1981年10月に死刑制度を廃止しています。世論調査でも半数以上が死刑を支持している状況下で、ミッテラン大統領が公約に掲げた死刑廃止を大統領就任により、議論を経て廃止された。基本的には政治決断だった。

 犯罪被害者の司法に対する憤りには、愛する人を無残に殺されたにもかかわらず、司法の場で「極刑がやむを得ないというほど、悪質とは言えない」といった類の裁判官の言葉を聞かされることにもあります。しかしこれは、最高刑が死刑かどうか、ということとは別問題です。

 

「犯人をゆるす」ことと、「死刑を求めない」こととは一度切り離して考えるべきでは?(P58)

死刑を求めないからといって犯人をゆるしたと考えるのは短絡的。

 

全国犯罪被害者の会         安田好弘弁護士

 なぜ死刑廃止を訴える人たちは、自分たち被害者がこんなにつらい目に遭っていることに目を向けず、犯人の命や人権のことばかりを主張するのか。そう感じている。その怒りは、犯罪者だけでなく、むしろ司法制度に対する怒りも強くあります。しかし、世間はそこには無関心。

 

・・・そもそも、被害者に対するケアという視点が、この国ではとても弱いと感じます。彼らが今後、生きていく上で困らないような手厚い金銭的、精神的、現実的な支援が必要なのではないでしょうか。

(P62)

 

「ゆるし」と「罰」が持っている昨日(P63)

 復讐心を抱いて、相手を憎しみ続けるというのは、際限もなく生のエネルギーを消耗させます。被害者を、その人生の喜びから遠ざけてしまうことになります。この憎しみに終止符を打つものとして、「ゆるし」と「罰」があるとアーレント考えたわけです。

 被害者の中で「死刑を望んでいない」という意見に批判がある。それによって、被害者が再び傷つくことがある。「生きて罪と向き合い続けてほしい」という声が社会の無理解や多様性とはかけ離なれた形で抑圧されている。

 

犯罪被害者の会 ミシュカの森  世田谷一家殺害事件の妻の姉 入江杏さん  P65

        人権の翼    山口女子高生殺害事件 の母 中谷加代子さん入江さんと

 加害者を責めるのではなく、被害者遺族からの語りかけで「思い」を届けることが、誰もが幸せを感じて生きることができる社会をつくるための着実な一歩になる。

国家による合法的な殺人には否定的。「罪を犯してしまった人に必要なのは、向き合い、反省、謝罪、更生、そして未来の自分を生きることであり、そのための時間。死刑はその時間を奪うことになる。

 

「自分が被害者だったら加害者をゆるせるか」「被害者の気持ちを考えたことがあるか」という問い

憎しみに特化した被害者への理解や共感でなく、もっと繊細で複雑な被害者家族の想いに寄り添うべき。P70

 

日本における人権教育の失敗 (P71)

小中学校では「相手の気持ちになって考えましょう」式の感情教育に偏っていて、個人として有する当然の権利としての人権について、歴史的、概念的に説明するということはほとんどなかった。人権を感情面だけで捉えてしまうことは、共感できない相手に対しては、差別も暴力も、何の歯止めが無くなってしまう可能性が高まる点で危険。(P72)

・・・むしろ授業では、とても共感できない人の人権をこそ尊重するケーススタディが必要ではないでしょうか。(P74)

死刑についての考え方とも深く結びついていて・・・死刑囚になるような、心情として共感しにくい人物について、日本では権利の問題として考えるという発想がとても希薄です。

 

「死刑が支持される理由」としてメディアの影響 (P76)

 

死をもって罪を償うという文化(P79)

「死んでお詫びをする」切腹。死に謝罪や責任を取る意味を認める文化。

自殺することで、罪を償うことが潔いものとして肯定される文化。

 表裏一体で、「過ちを犯した人間は死をもって償うべきだ」という発想は、日本特有の文化ではないか。

「のうのうと生きている」・・・存在の抹殺

死刑廃止派の中にも「死ねば殺した責任を果たせるわけではない、生きて償ってほしい」

 

神の存在を意識しているキリスト教やイスラム教とは違い、神の存在、死後の世界に対する観念がとてもあいまい。・・・人間社会で起きたことは、すべて人間社会の中で解決しなければならないという考え方につながっていきます。・・・この社会に自分たちの手で地獄をつくらなければならないという発想。(P84)

 

「税金の無駄遣い」を厳しく問う排他主義(P90)

救済されるべき人とされるべきでない人

役立たない者、害となる者

税金を使うべきでないとする者、外国人(在日コリアン)。税金を納めているのに。参政権は?

生活保護の不正受給者の率、0.4%程度。必ずしも悪質とは言えない。先進国では極端に低水準。

むしろ、必要な人が適切に受給できていない日本。

死刑についても「税金で生き長らえさせることは許さない」という声、それで本当にいいのでしょうか?

アベノマスク、オリンピック、武器の大量買い、には無批判。

 

死刑をめぐる議論は、とかく感情的にヒートアップしがち。(P93)

深刻で難しい問題を、粘り強く冷静に話し合うことは、民主主義社会に生きている私たちに負わされた課題です。

 

国際社会を視野に議論する(P93)

日本国内だけで議論しても限界がある。自明なことと捉えられ、疑問を持つ余地がないから。

海外では、いろんな和解やゆるしの実践が行われている。(P95)

 

基本的人権から考える必要性(P96)

死刑という問題はやはり基本的人権から考えていかねばならないと思います。その意識が、日本社会ではあまりに欠如しています。

人間は誰からも生存の権利を奪われてはならないという大前提について、社会的な認識が深まる必要があります。

他者に心情的な共感を持てるということは、社会にとって非常に重要です。しかし、罪を犯す人の中には、そうした共感能力に問題を抱えている人もいます。だからこそ、犯罪抑止のためには、共感するよりも人権の理解が重要であり、そうである以上、死刑制度は背理なのです。

 

すべての人間が、人権という権利主体であることを認めた上で議論していなければ、人間による人間の選別が際限なく行われていくことになってしまいます。(選別は死刑か否かも含まれる)

 *岡山の事件を「人間業とは言えない」という憲法学者、戦争犯罪はほとんどが人間業ではない。

 

基本的人権の尊重

人間が、「人間らしく生活するために生まれた時から持っている権利」が、基本的人権です。そしてこの権利は、侵すこと※のできない永久の権利として日本国憲法で保障されています。

※侵す:邪魔する、なくしてしまうという意味

 

被害者のケアと加害者への視点

 死刑廃止運動では、ともすると被害者へのケアの視点が欠け、加害者の人権ばかりが主張されているように見られてきました。

 社会自体が、加害者への憎しみという点で被害者に共感するのに、社会から置き去りにされ、孤独な状況に追いやられている被害者へのケアはけっして十分ではない。

 

 僕は国家に優しくなってもらいたいと思っています。政治の世界でも、人事権をもって相手を従わせようとする姿が散見されます。恐怖心による支配の究極が死刑制度です。

 被害者への共感を犯人への憎しみの一点とし、死刑制度の存続だけで、被害者支援は事足れりとしてきたことを、私たちは反省すべきです。

 被害者がどこまでも尊重され、被害者を社会的にどう救済していくべきかを考えることが、・・・加害者の置かれてきた劣悪な生育環境などにも目を向けていくことにつながっていくはずです。劣悪な環境に置かれている人たちへのケアという発想が生まれれば、犯罪の加害者となってしまうのを未然に防ぐこともできるでしょう。少なくとも、国はそういう努力をしなければならないはずです。

 

ある男

 立法と行政の失敗を、司法が、逸脱者の存在をなかったことにすることで帳消しにする、というのは、欺瞞以外の何ものでもなかった。

 

戦争の反省から生まれた憲法において、三権分立が、間違った使い方で法が作られ、裁決されると、戦時中のように冤罪で死刑になることもまかり通る恐れが増す。想像力をもって国民は死刑制度の使われ方を考えなくてはならないのでは?

 

「憎しみ」の国か、「優しさ」の国か

  被害者に寄り添うから、死刑を維持すべきと考えるのか。被害者に寄り添うからこそ、死刑を廃止すべきと考えるのか。「憎しみ」で連携する社会か、それとも「優しさ」を持った社会となるのか。死刑をめぐる議論は、この国と社会をどのようにしていくかという深い議論につながっていく問題だと、僕は考えています。

 

P117

死刑が国家による殺人であることは否定できない。

死刑の肯定とは、一つの思想である。しかしそれが変化しないとは必ずしも言えまい。

 

粘り強く対話する