子ども手当てについてどう思いますか?


多くのかたは、「まあ家計は楽になるしいいかな、でもなんか胡散臭い。ヘンじゃないの」というもやもやとした気持ちを抱いているように思います。


私もそうです。


今日、年下の友人と話していて、なんとなくそのもやもやを言葉にできそうに感じましたので、書いてみます。


● なぜ親は子どもに無私の恩恵を施すのか。


当たり前ですが、よほどのDQNではないかぎり、親は子どもを育てます。大変な手間とお金がかかります。子どもを育て上げたとしても、親の老後を子どもがみてくれるかどうかはわかりません。また育て上げる頃には、親は年をとって死んでしまっているかもしれません。かかる手間と経済的苦労を考えれば、子育ては引き合いません。


では、なぜ人は子どもを育て、子どもに無私の愛を与え、子どものために苦労するのでしょうか。多くの人は、それほど深く考えないでしょう。子どもがかわいいから。そういうものだから。そういう感じで子育てをしているでしょう。健全だと思います。ですが、ここでは、ちょっと理屈っぽく考えてみたいと思います。


人が子どもに無視の愛を与え、苦労を厭わぬのは、自分が親から受けてきた愛や恩恵を、今度は、自分が子どもに与えなければならない、自分が子どものために苦労する番だと、半ば無意識かもしれませんが、感じているからではないでしょうか。


一人ひとりの視点からすれば、次のように言えるでしょう。


自分は、親から多くの愛や恩恵を受けた。親からは、大きくなるまでに一方的に愛や恩恵を受けてきた。これを親自身に対して十分に返すことはできない。その代わり、今度は、自分が子どもをもち、育て、一人前にしていけばいい。自分が親から受けた愛や恩恵は、自分の子どもを育てるなかで返していけばいい。

おそらく、自分が、子どもに向ける愛や子育ての苦労は、子ども自身からは返してもらえない。でもそれでいい。子どもが、今度は、その子どもに、つまり自分にとっての孫に、たくさんの愛をあたえ、育てていってくれればそれでいい。


多くの人々が、なかば無意識かもしれませんが、そのように考えてきたからこそ、世代から世代へと命が受け渡されてきたのでしょう。


人が子どもに無私の愛を与えるのは、自分を世代のつながりのなかでとらえ、自分が親から受けた愛を、今度は子どもに与えようとするからこそだと思います。


● 親から受ける愛は世代間倫理の元となるもの


社会や国自体、過去の世代の人々の多大なる犠牲の上になりたっています。我々が、豊かな日本という国で生活できるのは、過去の日本人の幾多の犠牲と苦労があったからです。我々は、それを継承し、そして次の世代に順繰りに手渡していく責務があります。


自分は、自分だけで存在するわけではない。自分という存在は、歴史の一こまにすぎない。暮らしやすい日本の社会を、そして日本という国を次の世代に手渡していかなければならない。こういう実感・感覚が培われるオオモトとなるのは、さきほど述べたような親の無償の愛ではないかと思います。


親は、自分のためには苦労をいとわなかった。無償の愛をくれた。自分は、これを親には十分に返せない。その代わりに自分の子どもに伝えていく。

社会や国もそうだ。過去の日本人が、ときには命まで投げ出し、今の日本を作り遺してくれた。過去の日本人にその恩を返すことはできない。そのかわりに自分は、次の世代の日本人のために頑張ればいい。それしかできない。頑張ってよき日本を後の世代に手渡していく。それが過去の日本人から受けた恩を返すことである。


以上のような気持ちを、なかば無意識かもしれませんが、多くの人々が抱いていたからこそ、今のよき日本があるのでしょう。この気持ちが失われれば、日本は、ろくでもない国に成り下がってしまいます。


● 子ども手当ては、倫理・道徳の根本を侵蝕してしまわぬか


子ども手当ては、こうした「親から子どもへ、子どもから孫へ」とつないでいくつながりの感覚を奪ってしまわないでしょうか。また、ひいては、日本を成り立たせてきた世代間の倫理やつながりの意識を断ち切る元となってしまわないでしょうか。


子ども手当ての制度が始まると、きっと次のような気分が日本に蔓延します。


「子ども手当てがあるから、生活が成り立っている。子どものおかげで親が食っていける」。


実際は、子ども一人当たり一ヶ月2万6千円だとすれば、親の生活を成り立たせるほどの額ではありません。ただ、そういう気分自体は、社会に生じてくるはずです。

生意気な子であれば、実際に「自分がいるから、お父さんお母さんは暮らせるんだぞ」というようなことを言い出すかもしれません。


「自分がいるから、子ども手当てがでる。自分のおかげで親の暮らしは楽になっている」。子どもが少しでもそのように感じるのであれば、道徳・倫理の根本の腐食が始まります。


少しでもそう感じてしまった子どもは、長じては自分の家族や子どもを作り、その子どものために努力をしようなどとは思わなくなるでしょう。ひいては、親の愛に対する感受性や、親の苦労に対する感謝と自責の念を、社会全体、国全体に押し広げ、社会のため、日本のために努力していこうという感覚も喪失してしまうでしょう。


子ども手当ては、日本の倫理・道徳の根本を台無しにしてしまうのではないでしょうか。


● 予想される反論


ここまでの私の議論に対する、予想される反論の一つは次のようなものです。


民主党は、「子どもは社会全体で育てる」という趣旨のことを言っている。その言葉にあるように、子ども手当を受け取って育てられた子は、社会や国に対して、まさに直接的に恩を感じるはずではないか。そうなれば、やはり社会や国に恩返しをしていこうという気になるのではないか。


この反論は、成り立たちません。


道徳的感受性の源となるのは、親からの愛の内面化です。親の愛を感じとり、親が自分のために多くの苦労を引き受けてくれたという事実を実感するところから、道徳的感受性は育まれます。そして、そこで育まれた道徳的感受性が、徐々に広がり、もっと広い周囲の人々へ、そして社会全体や過去の世代へと拡大されていくわけです。


道徳的感受性は、親や家族を飛び越えては発達しないのです。


親から受ける愛や恩恵を感じとる経験を経ずに、社会や国や過去の世代からの恩恵を感じられるようになることなど絶対にありえないでしょう。


親に対して、「自分がいるから、お父さんお母さんは生活できている」と感じてしまった子どもが、社会や国に貢献するようになるとはまったく思えません。


そもそも、「家族ではなく社会が子どもを育てる」という発想は、共産主義のお得意の発想です。家族解体論は『共産党宣言』のエンゲルスが持ち出したものですし、ソビエトも中国も引き継いでいます。一昔前の中国の「人民公社」などはまさにこの手合いでしょう。

共産主義は、家族を、不平等の再生産装置として敵視するわけですから。


両親の愛、家庭のぬくもりを感じずに育った子どもは、社会や国に対しても、何も感じません。親にかけた苦労に感謝と自責の念を感じない大人は、親を飛び越えて過去の世代に感謝することなどありえません。将来世代に対する責任を感じたりもしません。


● 家族で育まれる感受性こそ倫理・道徳の源であり、家族を重視する社会を作るべき


ちょっと古臭いかもしれません。ですが、理屈っぽく考えたとしても「家族で育まれる感受性こそ倫理・道徳の源であり、家族を重視する社会・国を作るべきである」という結論が導かれます。


子ども手当ては、家族を迂回しようとする発想です。世代間の倫理を実質的に断ち切ります。


子どもを養い育てるために苦労はいとわない、どうにか働きたい。よい家庭をしっかり築きたい。そう願う親を、でしゃばらずに背後から支援する政策、つまり企業を支援し働き口をたくさん作る、あるいは税の控除枠を撤廃するどころか拡大していく。そういう政策こそ日本には求められるのではないでしょうか。


事実上、家族をバイパスし、家族の絆を弱めてしまう子ども手当の発想は、共産主義・全体主義の悪臭を発しています。


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