次のようなフレーズ、最近、たびたび耳にします。
「外国人が暮らしやすい社会は日本人にも暮らしやすい社会だ」。
一番、印象に残っているのは、例の移民一千万人計画構想をぶち上げたときに、中川秀直・自民党元幹事長がスローガンとして使っていた言葉です。
2008年6月20日の『産経新聞』の記事です。
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移民1000万人受け入れ 国家戦略本部が提言(抜粋)
『産経ニュース』 2008.6.20 06:48
自民党国家戦略本部(本部長・福田康夫首相)の「日本型移民国家への道プロジェクトチーム」(木村義雄座長)は19日、日本の総人口の約1割に当たる1000万人の移民受け入れを目指す政策提言をまとめた。20日にも首相に提出する。経済成長重視の「上げ潮」派のリーダーである中川秀直元幹事長が旗振り役を務め、「中川総裁誕生に向けたマニフェスト(政権公約)だ」(自民中堅)との見方もある。一方、移民の大量受け入れに保守派は難色を示しており、党内の軋轢(あつれき)がますます広がる可能性もある。(加納宏幸)
「外国人が暮らしやすい社会は日本人にも暮らしやすい社会だ。多文化共生に向けたメッセージを発し、国民運動を進めていく必要がある」
中川氏は19日のPTで提言の実現に向け、強い意欲を示した。
提言では、50年後の日本の人口が9000万人を下回るとの人口推計をもとに移民受け入れによる活性化を図る「移民立国」への転換の必要性を強調。移民政策の基本方針を定めた「移民基本法」や「民族差別禁止法」の制定、「移民庁」創設などを盛り込んだ。
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● 耳当たりのよいウソ
ネットで適当に検索してみると、「外国人が暮らしやすい社会は日本人にも暮らしやすい社会だ」というこの表現は、「多文化共生」を推し進めるNGO・NPOとか、大学の先生とか、一部の自治体の役人とかが、スローガンとしてけっこう頻繁に用いているようです。最近、一部で流行している表現みたいです。
いうまでもないことですが、端的にウソですよね、これ。
中国人が暮らしやすい社会は、中国語が使われ、中国風の街並みで、中国人がたくさんいる社会でしょう。
フランス人が暮らしやすい社会は、フランス語がつかわれ、フランス的価値観が尊重され、フランス人の好みに合った街並みで、フランス人が多い社会でしょう。
そういう中国人やフランス人にとって暮らしやすい社会が、一般的日本人にとって暮らしやすいわけありません。
当然ですが、日本人にとって暮らしやすいのは、日本語がつかわれ、日本的感受性が活かされた街づくりがなされ、日本的価値観が尊重され、日本人が多く暮らしている社会です。
● 文化を排したグローバルで合理的な社会?
理屈っぽい人だと、「いや、そうじゃなくて、外国人にとって暮らしやすいというのは、外国人にわかりにくい日本の暗黙の慣習やしきたりを排した、オープンなわかりやすい社会のことだ」というかもしれません。つまり、「ローカルな文化を排した、グローバルで合理的な社会」のことであると。だったら、日本人にも住みやすい社会ではないかと。
しかし、それでも、やはり、「外国人が暮らしやすい社会は日本人にも暮らしやすい社会だ」というのは、ウソでしょう。
そもそも「ローカルな文化を排した、グローバルで合理的な社会」なんて、あり得ないからです。
少し前に、経済に関して、「グローバル・スタンダード」という言葉が声高に叫ばれたことがありました。小泉・竹中路線の構造改革のころです。
振り返ってみると、「グローバル・スタンダード」は、その実、「アメリカ型」の経済システムにほかならなかったわけです。「グローバル」ではなく、「アメリカ的ローカル」だったわけです。多くの人が認めるように、「グローバル・スタンダード」の導入は、日本経済に大きな傷跡を残しました。
一見、合理的で開かれており、中立的なものに見えた「グローバル・スタンダード」は、実際のところ、「グローバル」でも、日本経済にとって合理的なものでもなかったわけです。
「グローバル・スタンダード」が実は「アメリカ型のルール」に過ぎなかったことに表わされているように、どこの文化も負っていない、合理的で、グローバルで、中立的で、万人に開かれた社会など幻想でしょう。
● 多様な文化に対応した社会??
あるいは、理屈っぽい人は、こういうかもしれません。
「最近、道路標識など日本語だけでなく、英語や中国語やハングルで書かれたものをよく目にするだろう。『外国人にとって暮らしやすい社会』というのはこういったものだ。つまり外国人が、それぞれ自分たちの国の言葉で、行政サービスや教育を受けられるように十分配慮した社会のことだ」。
しかし、こうだとしても、「外国人にとって暮らしやすい社会は日本人にも暮らしやすい社会だ」というのはウソでしょう。
道路標識や道案内の掲示ぐらいならいいでしょう。ですが、たとえば、市役所などでの各種手続きを全部、日本語だけでなく、英語や中国語でもできるようにするとしたら、大変な費用と手間がかかります。
また、教育の場合も、外国出身の子弟が日本語でのちのち教育をうける準備のための日本語クラスの開講ぐらいであればいいでしょう。しかし、すべての公立学校の教育を、英語や中国語、韓国語でも受けられるようにするのであれば、膨大な費用と手間がかかるでしょう。
何より、そういう教育を受けた子どもたちが作る社会は、日本語がどこでも通じるわけではため、また日本的慣習や感受性が通用しないところが多くなるため、決して「日本人にとって暮らしやすい社会」などではなくなるでしょう。
● 耳当たりはよいがわけのわからぬ言葉にだまされぬ健全な常識が大切
やはり、もっと常識的に考える必要があるように思います。
「外国人が暮らしやすい社会は日本人にも暮らしやすい社会だ」というのは、ウソでです。
別にリキんでいうほどのこともない当たり前のことですが、日本のこれからの国づくり・社会づくりの主役は、あくまでも日本人であるべきです。
それが基本中の基本でしょう。
この基本を外さない限りであれば、たとえば、観光地には、各国語の表示をつくるとか、市役所や大学や大きな病院に各国語のできる通訳をなるべく配置するとかという配慮は、余裕があれば、大いに結構だと思います。
(公平さからいえば、日本の政府や自治体は、日本がそうするのであれば、外国もそうするように求めるべきでしょう。つまり、日本の政府や自治体は、日本の街にハングルの標識を付けるのであれば、韓国の都市にも日本語表記の標識を作るように求めるべきです。)
忘れてはならないのは、あくまでも基本は、日本では、日本人に住みやすい国・社会を作っていくのが当たり前だということです。
(もちろん、同様に、フランスはフランス人に住みやすく、韓国は韓国人に住みやすく、チベットはチベット人に住みやすくするのが基本でしょう。また外国に移住する、あるいは仕事や留学などで一時的に暮らす場合は、基本的に相手国の文化や慣習や言語を尊重することが求められるでしょう。こちらも当たり前ですが。)
中川秀直氏の言葉のように、外国人の暮らしやすさのほうに眼目をおいて、今後の日本の国づくり・社会づくりを行っていくべきだというのは、滑稽というか倒錯というか、バカバカしい限りでしょう。自分の頭で少しでも考えてもらいたいものです。
「外国人が暮らしやすい社会は日本人にも暮らしやすい社会だ」というような、したり顔の言葉に対しては、
「んなわけないだろ。JK!」
と間髪をいれず即答できる健全かつ骨太の常識を失わないよう心がけたいものです。
(当たり前のことを長々と書きました。失礼しますた。m(u_u)m)。