● 「配慮」、「譲歩」ばかりの日本の外交


2回ほど前のこのブログの記事で、民主党政権が、韓国に「配慮」し、高等学校の学習指導要領指導書から、「竹島」についての記述を削除したということを書き、批判しました。


今回の竹島の問題だけではなく、先日の天皇陛下の「特例会見」、少し前の東シナ海の「白樺」などのガス田の問題、靖国神社の問題、毒入り餃子の問題、歴史教科書の問題などなど、日本が近隣諸国に「配慮」し、「譲歩」した事例は、枚挙にいとまがありません。


この記事では、外交では、特にいわゆる特定アジア諸国との外交では、「配慮」や「譲歩」はまったく意味をなさないということを、一種の文化論的な観点から考えてみたいと思います。


● 「譲り合い」は、日本のように人々の移動が少ない社会で生じる倫理


『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社、2008年)という本で、中谷巌氏が、「譲り合い」についての日本人の思い込みについて、おもしろい指摘をしていました。


それによると、「こちらが譲れば相手も譲るはずだ」という考え方は、日本のように、定住性の高い、閉じた社会でのみ通用する倫理であるということです。


日本のように定住性が高く、人の移動が激しくない社会では、人間関係は長期的観点から考えられます。つまり、ほかの人々とは、ながく顔を合わせ、付き合っていくのが普通です。そういう社会では、譲り合いの精神が生じやすいのです。


一つは、人間関係は長期的であり、あまり入れ替わりのないものだと認識されば、人は、お互いに表立った軋轢を生じさせるのを避けるようになるからです。他者との軋轢は、入れ替わりのない安定的な人間関係のもとでは、非常にストレスフルですので、そういうのをなるべく避け、「譲り合おう」という意識が高まるということです。


また、長期的で安定的な人間関係があるところでは、「困った時はお互い様」という考え方が有効であることも、「譲り合い」の精神が生じやすいことの一因でしょう。


他者が困っているときに自分が手を差し伸べれば、自分が困った事態に陥った時には相手が助けてくれるだろうと、お互いに思うようになりやすいということです。


ですが、このような「こちらが譲れば相手も譲るだろう」という考え方が発達してくる条件が整っているのは、あくまでも、日本のように、人々の移動が激しくなく、比較的閉じていて、人間関係が安定的な社会のみです。


● 伝統的に流動性が高かった社会では、「譲り合い」の倫理は通用しない


大陸(中国)や半島(朝鮮)は、島国・日本に比べれば、ずっと人の移動の激しい国です。陸続きですから、さまざまな民族・部族・氏族が、さかんに移動し、入り混じり、入れ替わってきた歴史をもちます。(日中戦争のときに、中国は、国民党政府も、共産党政府も、そのほかの軍閥も、それぞれ、あちこちに移動しまくっていたぐらいですし。つまり、政府自体が移動しまくっていたのですし。)


人の流動性が高いそういう国では、「譲り合い」や「困った時はお互い様」の精神は、育まれにくいといえます。


他者に譲ったり、他者を助けたりしても、その他者は、次のときには、どっかに移動していってしまうわけですから。


また、流動性の高い社会では、ある人との関係が悪化したとしても、その人間関係が長く続くわけではないので、たいしたことはありません。お互いに意を汲みとりあって暮らす、譲り合って暮らすという倫理などなくてもよいことになります。


そういうわけで、特亜諸国のような大陸・半島の社会では、「譲り合い」、「助け合い」といった倫理は生まれにくいと推測できます。


● 特亜諸国に譲るなかれ


日本人が譲る時、「誠意を見せよう」とする時は、多くの場合、「相手も同じように誠実に行為してくれるだろうから、相手との関係が良好になるはずだ」というふうに考えている場合が多いと感じます。


ですが、以上のような文化論が正しいとすれば、中・韓などに対しては、それは日本人のみの悲しい幻想のようです。


日本の左派インテリは、「日本と、中国・韓国はおなじ「東アジア」なのだから、文化的に似ている。同文同種だ」みたいな勝手な思い込みをしていますが、これは正しくないといえます。


島国で閉じた安定的・長期的な人間関係がふつうである日本と、流動性が高く一時的な人間関係が伝統的に常態であった大陸・半島国家である中国や韓国とは、文化も倫理もかなり激しく異なっているように思います。


「こちらが譲れば相手も譲るはずだ」という考え方は、まったく通用しないのではないでしょうか。


● いきすぎた配慮は要らぬ。脅威に思われるぐらいでちょうどいい


日本人は、嫌われるのをひどくいやがります。流動性の低い、長期的・安定的な人間関係が伝統的にふつうだったし、今でもそうですので、人は、嫌われて、評判がおちると、暮らしにくくなるからです。


ですが、そういう長期的・安定的な人間関係を育んできた社会は、世界的にみれば稀でしょう。


特亜諸国をはじめとして、嫌われようがなんだろうが自分の現在の利益の主張が第一だ!という国々が、圧倒的でしょう。


そういう世界では、日本人に求められるのは、ある種の開き直りではないでしょうか。


よく日本の政権は、「周辺諸国の脅威にならぬよう」に配慮しますが、そんな遠慮は無用ではないでしょうか。


逆に、断固たる態度を一貫してとり、誤ったメッセージを送らぬようにすることが、さまざまな外交問題の解決のカギではないでしょうか。


最後に、やはり案の定といいますか、韓国側は、今回に竹島に関する日本側の「配慮」などまったく気にかけず、自分たちの主張を繰り返すのみだということを報じている記事を引用しておきたいと思います。


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韓国、竹島で非難キャンペーン “友愛外交”効果無し
2009.12.26 19:26 (産経ニュース リンクはこちら


【ソウル=黒田勝弘】韓国マスコミがまた竹島(韓国名・独島)問題で興奮している。日本の新しい高校学習指導要領解説書が領土問題について「竹島」の名称を挙げなかったにもかかわらず、「日本が領有権を主張していることに変わりないではないか」とし、すべてのメディアが一致して日本非難のキャンペーンを展開している


「隣国が嫌がることはしない」と“アジア友愛外交”を主張している鳩山政権は今回、韓国への配慮から、先の中学学習指導要領解説書(昨年7月)とは違って具体的に「竹島」の名前を出すことは避けた。


このため韓国政府(外交通商省)は「苦労の跡が見られる」として日本非難のトーンを下げたが、マスコミは「鳩山政権に失望」と相変わらず強硬だ。とくに川端達夫・文部科学相が記者会見で質問に答え、「竹島は日本の固有の領土」とする従来の政府の公式的立場を繰り返したことまで「妄言」と非難している。


韓国では近年、駐韓日本大使が領土問題で日本の公式立場を語ることさえ許せないという異様な雰囲気になっている。領有権をめぐって長年対立しているという客観的事実さえ認めようとしない。強硬論ばかりなため、外交的配慮は日本の“弱気”として逆に押せ押せムードを招きがちだ。


今回、新聞論調は「独島はわれわれが実効的に占有しており、それを守ろうという国民的意志も強力だ」といいながらも、「警戒を怠ってはならない」とし「日本政府が日韓間には領土紛争はないというまで修正を求めていかなければならない」(26日、中央日報社説)など高姿勢が目立つ。


ただ韓国政府は日本側の配慮に対し、前回の外交通商相スポークスマンの声明より弱い論評にとどめ、その内容も「抗議」ではなく「憂慮」「遺憾」になった。日本大使への抗議の場面も韓国マスコミには公開しなかった。「良好な両国関係維持」のため外交的には静かに対応する構えだ(外交通商省筋)。


しかし、親韓的とみられてきた鳩山政権には期待が大きい。鳩山由紀夫首相の「歴史を直視する勇気」というこれまでの対韓発言は、領土問題を含め韓国の言い分を受け入れてくれることだと思われている


その結果、配慮にもかかわらずマスコミ論調には「失望」との声が強い。「東アジア共同体」を言うのなら領土問題に執着するなという社説もある(ハンギョレ新聞)。日本側の配慮に対し「韓国側も配慮を」などという発想は依然、まったくない。

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