細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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行った史跡や読んだ小説をご紹介


令和8年4月20日、大河ドラマ「豊臣兄弟!」が放送中ということで京都の豊臣秀吉に関する史跡に行ってきました。

私は豊臣秀吉は歴史の人物の中では正直あまり好きな人物ではないのですが、せっかくの機会ということで行きました。

京都市東山区の豊国神社です。博物館の隣にあります。豊臣秀頼により建立された秀吉を祀る神社です。本当はここより東の阿弥陀ヶ峰の山頂にお墓があるようで、行きたかったのですが、石段がものすごいらしく、時間がなかったのでまたの機会とすることにしました。

秀吉像


唐門

伏見城から移築したものです。


豊国神社御朱印


宝物館に名刀骨喰藤四郎があるそうなのですが、今回は隣の博物館に移しているということで残念ながら見れませんでした。


この豊国神社の隣に方広寺があります。秀吉はここに奈良の東大寺の大仏より大きな大仏を作りましたが、慶長伏見地震により崩壊しました。

大仏殿石垣


方広寺の鐘


大坂の陣の発端になった「国家安康 君臣豊楽」の文字が入っています。文字の並びから「家康の首を切ったら豊臣の安らかな国ができる」という願掛けをしたのではないかという家康側の一方的な言いがかりです。寺の人がどこに書いてあるのか聞かれるのがわずらわしく思ったのか、白塗りしてあります。

次にここに車を停めて、秀吉の妻ねね(高台院)が秀吉を弔うため建てた高台寺を目指しました。この日は平日でしたが、とりあえず外国人観光客が多くたどり着くのに疲れました。



久しぶりに高台寺に来ましたが、かなり広いです。


茶室、遺芳庵


偃月池と開山堂


臥龍池


霊屋(おたまや)


傘亭


時雨亭

伏見城にあった庭の池のほとりにあった茶室です。池から小舟を使って入ったそうです。


傘亭


勅使門


ねね終焉の地、圓徳院


ねねは尾張の織田信長の足軽、杉原氏の娘で弓衆頭浅野長勝の養女でした。秀吉と出会ったことでドラマチックな人生を歩んだと思われます。戦国の侍の妻として、天下人の妻としてどんな思いだったのでしょう。

正直側室から第二婦人のような形になった淀殿に対しては複雑な思いがあったと思います。関ヶ原の戦いの東軍に旧豊臣家臣(福島正則、黒田長政、山内一豊など)が加入しているのは家康が懐柔したこともありますが、それにねねが後押ししたとも伝わっています。大坂城に息子である秀頼とともに居座って好き勝手する淀殿には忸怩たる思いはあったでしょう。

秀吉の伏見城での死後、ねねは大坂城西の丸→御所近くにあった京都新城(最近発掘された)に住んでいたようですね。その後、ここに移りました。


次に秀吉が作った御土居を見に行きました。

北野天満宮

天正15年秀吉は北野大茶会を催しました。老若男女、身分の卑賤を問わない集まりだったと言われています。

北野御土居


北野御土居


御土居とは秀吉が作った京都を城塞化するために中心部を囲った土塁のことです。その多くは宅地化や交通整備のため取り壊されたようです。


平野御土居


平野御土居


磯田道史先生出演の「磯田道史の歴史をゆく」より紹介します。秀吉は天正19年、天正地割で御土居を築き、御土居の東側に寺を集めました。これが現在の寺町通りです。防御施設としての寺だったようです。

緑の線が御土居です。


また御土居の外側の堀に障子堀が使われていたことも最近の発掘で分かったようです。




また秀吉はこれまでの京都の住宅のデッドスペースをなくすことにより、より多くの人が住めるようにし、その結果うなぎの寝所と呼ばれる独特の家屋ができたといわれています。


慶長2年秀吉は木幡山伏見城を完成させました。慶長伏見地震で倒壊した指月山伏見城を再建したものでした。


慶長3年晩年の秀吉は醍醐寺で花見を催しました。


天正15年に秀吉は豊臣秀次のために聚楽第を作りました。しかし、遺構はほぼ残っていません。縄張りは広島城に似ていたともいわれている。広島城は秀吉により聚楽第を案内された毛利輝元が影響を受けて作ったといわれている。


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