明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
今年も色々と訪れたいところがあるので機会を見つけて行こうと思います。
去年の11月の休みの日に左京区あたりでのんびりできるいい雰囲気のカフェをフラフラ探していたら、今回は決して史跡は行かないでおこうと思う私の意に反して来てしまいました。岩倉という字で以前行った時に工事中だったことを思い出したのです。
最近は城をもっぱらアップしていますが、どちらかというと幕末や南北朝時代の方が好きです。今回は久々に幕末の史跡をご紹介します。
岩倉具視は明治維新の元勲であり右大臣であった人です。薩摩藩とともに歴史を動かしたフィクサーといっても過言ではない人物です。アメリカ、ヨーロッパとの条約改定と視察のために政府関係者で構成された岩倉使節団は有名ですね。
また明治に入って岩倉具視の暗殺未遂事件を契機として、大久保利通によって警視庁が創設されました。
表門
岩倉具視は、京都から追放されたことから、元治元年から慶応3年までの約3年間を洛北の岩倉村で密かに暮らしました。現在残る旧宅は、大工藤吉の居宅であった現在の附属屋部分を、岩倉具視が購入し、主屋(鄰雲軒)と繋屋を増築して住居したものです。
茅葺の鄰雲軒は近代和風建築の黎明期の様相をあらわした貴重な建築物。
昔ながらのおくどさん(かまど)や大正ガラスの障子戸などがご覧いただけます。近代日本庭園の立役者、七代目小川治兵衛の手になる庭園をゆったりとご鑑賞いただけます。
庭園中央には岩倉具視お手植の松と伝わる松があります。
玄関
龍吐水
江戸時代から明治時代に使われた消化用ポンプ
主屋(鄰雲軒)と附属屋の間の中庭
炊事場
鄰雲軒内部
坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通も訪れたようで王政復古など議論された重要な地です。
鄰雲軒から見た庭
大正ガラスの障子戸があります。
朝廷で失脚しての左遷という体ですが、公武合体(徳川家茂への和宮降嫁)の責任者として過激尊王攘夷派の土佐藩(武市半平太ら)から命を狙われて身を隠すようにという孝明天皇のはからいだったようです。
対岳文庫
岩倉具視の遺品類などを修造するため、昭和3年に建設されました。対岳とは具視の雅号で、岳は比叡山を指し、その向かい側に住んでいるという意味合いです。
僧侶に身をやつして洛中を退去し、西加茂霊源寺へ流れる様子(岩倉公一代絵巻 明治23年頃)
ここに至るまでに御所近辺を転々としたようですが最終的にここ岩倉村にたどりついたようです。またここは岩倉具視にちなんで岩倉村となったのではなく、もともと岩倉村という地名だったようです。
岩倉具視宛中岡慎太郎書状 慶応3年9月10日
中岡慎太郎は土佐出身の志士。横山勘蔵と変名しました。宛名の北岡は岩倉を指します土佐藩は薩摩藩と協力すると申し合せましたが、前土佐藩主山内容堂は藩兵の京都派遣に反対したため、そのお詫びと新たな方策を岩倉に相談したいと申し入れています。
岩倉具視肖像画写真
明治7年叔母洗子に送ったもの
明治維新後には具視は東京に移り住んだけれども、京都に来た際には村の人々と宴席をもって旧交を温めました。具視は岩倉村が創業の地であり、危機に瀕した際に助けてくれた村の人々のことを終生忘れませんでした。
岩倉具視のご子孫には、なんとあの歌手で俳優の加山雄三さんがおられます。びっくりですね。
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