和算とは江戸期の日本に独自に発達した数学で、記号を使って高度な代数や幾何を解くという点では洋算と変わりませんでしたが、そのレベルも同時代の西洋の数学と肩を並べるほどでした。前述した村松茂清の円理の研究を発展させたのが関孝和です。

 
そしてこれらの高水準の研究を背景に寺子屋などを通じて、一般町民の教育レベルが上がり、開国後の急速な発展に寄与し、その遺伝子が今日の「もの作り大国、日本」を支えていることは言うまでもありません。

 

江戸時代のわが国の数学は世界トップレベルだった

最近の時事問題では都知事の公私混同問題、芸能人の不倫、幼児の置き去りなどかってのわが国ではありもしないことばかりが報道されています。
また幼児から大学までの基礎学力の低下が叫ばれてから久しい。
特に数学の学力低下が指摘されています。
 
現代のわが国は著名な数学者を輩出し、世界的に見てもトップクラスといえます。著書「国家の品格」を著した藤原正彦お茶の水女子大学名誉教授もその中の一人です。現在の学校教育で学習するタイプの数学は、明治時代にヨーロッパから入ってきたものであり、江戸文化を否定した明治政府は一時期、欧米化に突き進んだ時代もありました。戦後教育においても日本の素晴らしい文化・伝統は否定した時期がありました。
そのため、江戸時代以前のわが国にはあまり大した数学はなかったと思われがちですが、実は世界レベルと比較しても、決して劣ることのない高水準でした。
歴史に残る大数学者といえば西洋の数学者の名前が挙がります。
古代ギリシアのピタゴラス、ユークリッド、アルキメデス、17世紀のデカルト、ニュートン、ライプニッツ、18世紀のガウス、19世紀のリーマン。少し詳しい方であれば、ガロア、アーベル、オイラー、フェルマー、カントールなどの名も列挙されるでしょう。しかしそこに日本の数学者の名が並べられることはありえません。前述したようにわが国の数学が明治以降、西洋数学(洋算)の影響下に発展しました。和算の分野とは異にしますので仕方がないところです。とはいえ、日本にも西洋の数学者に匹敵するすぐれた数学者が存在しなかったわけではないのです。
わが国には独自の数学(和算)が発展していたのです。
 
 日本の数学は奈良時代の少し前から室町時代まではすべて中国から伝わったものですが、我が国最古の歌集である「万葉集」(759年頃)には「数字」や「九九」を利用した読み方がいくつか存在します。
 
 
算用記(著者不明)
 
 
『改算塵劫記』
 
 
江戸時代当初、ソロバンの普及とともに、その計算の練習問題の書物が必要となり、書かれたのが「算用記」です。
上記の画像、算用記(西本願寺歴代宗主収集の書籍)は日本人が書いた刊本数学所のうち最古のものとして位置づけられ、研究者の間では一六〇〇年頃のものとされているが、刊年もまた著者名も目下のところ不明です。
わが国文化史上、数学史上江戸時代前期の和算(日本数学)研究は、吉田光由の「塵却記」(下の画像)(一六二七年・寛永四年)、関 孝和の「発微算法」(一六七四・延宝二年)等の出現により、驚くべき高度な計算法の域に達していたことが知られていますが、算用記は研究者の間ではその内容の単純さが指摘されつつも、現存最古の和算書として、また日本数学の祖ともいわれる毛利重能著「割算書」(一六二二・元和八年)のほとんどが算用記の内容を受け継いでいるとされることからも、その先駆的、重要性が確認されちます。
寛永四(1627)年に吉田光由(よしだみつよし)という人が、「塵劫記」(じんこうき)という書を著しました。算盤(そろばん)の書といわれた「塵劫記」そろばんの使いかたや「ねずみ算」などを現代のゲーム感覚の書で親しみ易く江戸時代を通してベストセラーとなり明治初頭まで発行された名書です。
円周率については17世紀にオランダ人のコーレンという人が35桁まで計算しています。同じころに、かの有名なニュートンも円周率の計算にいどんでいますが、14桁まで達成しただけでした。
 
 わが国では、冒頭の画像にある「算俎(さんそ)」という著書を著した
村松茂清という学者が、「算俎(さんそ)」という書を著し、寛文31663)年、円周率の求め方を解説して21桁までの計算結果を示しています。正しい答えは7桁まででしたが、わが国最初の円理学者でした。まさに円理研究に於ける先駆者、世界トップレベルでした。のちに播州赤穂藩浅野家に仕え、養子の村松秀直は赤穂浪士のひとりとなっています。
 
この円周率を、さらに深く研究したのが、江戸時代中期の数学者、関孝和(せきこうわ)です。
 
 
 
 
関孝和(せきこうわ)
 
 
 
 
 
和算とは江戸期の日本に独自に発達した数学で、記号を使って高度な代数や幾何を解くという点では洋算と変わりませんでしたが、そのレベルも同時代の西洋の数学と肩を並べるほどでした。前述した村松茂清の円理の研究を発展させたのが関孝和です。
関孝和は正13万1072角形を使い、円周率を小数点以下11桁まで求め、連立方程式の解を求める公式をつくる過程で発見した行列式は、ヨーロッパに先駆ける発見でした。二次方程式の近似的な解を求める方法の考案、ベルヌーイ数(分数の級数)の発見、円理(円に関する計算)の創始など、いずれも時のヨーロッパの研究水準と遜色ないものでした。
そしてこれらの高水準の研究を背景に寺子屋などを通じて、一般町民の教育レベルが上がり、開国後の急速な発展に寄与し、その遺伝子が今日の「もの作り大国、日本」を支えていることは言うまでもありません。
 
日本人が日本人を知らなさすぎだと筆者はおもうのです。
先人の遺業、業績を学び、顕彰することこそ、日本人にとって大事であり、誇りに思うことに繋がっていくのです。
 
筆者はいつも思うのです、「日本人に生まれてよかった」と・・
 
天皇彌榮(すめらぎいやさか)