大和心・大和魂・大和撫子・武士道精神を取り戻さなければなりません。私達、日本人が見習うべき軍人です。

第一部:ユダヤ人を救った「偉大なる人道主義者」樋口季一郎 


という記事がありましたので、
ご紹介します。
(救済した人数には諸説あります。)
 
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■1.偉大なる人道主義者、
ゼネラル・樋口■
 
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イスラエルには世界的に傑出した
ユダヤ人の名を代々登録し、
その功績を永遠に顕彰する
「ゴールデン・ブック」という本がある。
その中に、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出した
ユダヤの偉人達にまじって、
「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」
  とあり、
その次に樋口の部下であった
安江仙江大佐の名が刻まれている[1,p516]。
 
樋口季一郎少将
-6千人のユダヤ人を救って
イスラエル政府から
「諸国民の中の正義の人賞」
を授けられたた外交官・
杉原千畝氏(本講座21号で紹介)とともに、
日本人とユダヤ人との浅からぬ縁を語る上で、
不可欠の人物である。
  
■2.ユダヤ人排斥は
日本の人種平等主義に反する■
 
1933年にドイツにナチス政権が誕生し以来、
大量のユダヤ人難民が発生した。
しかし、難民を受け入れる国は少なく、
ユダヤ人に同情的だった英米でさえ、
入国を制限していた。
難民のドイツ脱出がピークに達した39年には、
ドイツ系ユダヤ人難民930人を乗せたセントルイス号が、
英国、米国での接岸をそれぞれの沿岸警備隊の武力行使によって阻まれ、
結局はドイツに戻って、
大半が強制収容所送りになるという事件も
起きている。2
  
こうした中で、当時の日本政府も
ユダヤ人難民に対する方針を
明確にする必要に迫られ、
39年12月に5相会議(首相、外相、蔵
  相、陸相、海相)で
「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定した。  
その内容は、ユダヤ人排斥は
日本が多年主張してきた
人種平等の精神と合致しない、として、
・ 現在居住するユダヤ人は他国人と同様
公正に扱い排斥しない。
・ 新たに来るユダヤ人は
入国取締規則の範囲内で公正に対処する。
・ ユダヤ人を積極的に招致はしないが、
資本家、技術者など利用価値のある者は
その限りではない。(すなわち招致も可)
という3つの方針を定めたものであった。3
1919年、国際連盟の創設に際し、
人種平等条項を入れるように提案した
(本講座53号、米国大統領の拒否により失敗)
事に見られるように、
当時の日本は有色人種の先頭に立って、
人種平等を訴えていた。
その立場からしても、
ユダヤ人排斥は
当然反対すべきものであった。
 
■3.ユダヤ人の脱出ルートを確保した
日本■
 
この方針は現実に適用された。
当時の日本軍占領下の上海は、
ビザなしの渡航者を受け入れる
世界で唯一の上陸可能な都市だった。
ユダヤ難民は、
シベリア鉄道で満洲のハルピンを経由し、
陸路、上海に向かうか、
日本の通過ビザを取得して、
ウラジオストックから、
敦賀、神戸を経由して、
海路、上海を目指すルートをとった。  
 
杉原千畝氏が命がけで
日本の通過ビザを発行した
6千人のユダヤ人難民は、
後者のルートを通った。
そして、前者のルートで
3万人のユダヤ人を救ったのが、
本編の主人公・樋口季一郎少将である。  
 
ちなみに、当時の上海には、
2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していた。
42年には、東京のドイツ大使館から
ゲシュタポ(秘密治安警察)要員が
3度にわたって、上海を訪問している。
 
この事実をつきとめた
ドイツ・ボン大学のハインツ・マウル氏は、
上海にドイツと同様の
ユダヤ人強制収容所を建設する事を
働きか けたと見ている。  
 
しかし日本側は居住区を監視下においたが、
身分証明書を示せば
自由に出入りできるようにしており、
大半のユダヤ人は戦争を生き抜いて、
無事にイスラエルや米国に移住した。
 
猶太(ユダヤ)人対策要綱は、
日米開戦後に破棄され、
新たに難民受け入れの禁止などを定めた
対策が設けられたが、
ここでも
「全面的にユダヤ人を排斥するのは、
(諸民族の融和を説く)
八紘一宇の国是にそぐわない」とした。
 
樋口季一郎少将はこの精神を
そのまま体現した人物であったと言える。
 
 
(続く)