地方公務員の方達に配られる冊子へ寄せた言葉です。
(8月に書きました。)






この世は無常なのだ。心のなかで何度も言い聞かせる日々が続いています。

東日本大震災から5ヶ月が過ぎました。ふくしまで育った私にとっては、東京電力福島第一原子力発電所事故の収束が見えない間は、ずっと震災が続いている気持ちです。
3月11日、あの時、私は地下鉄の電車の中で、まるで大きな波に流される小舟に乗っているような揺れを感じました。瞬時にふくしまの家族、友人、知人の顔が浮かびました。不安を抱え地上に出ると、高層ビルからヘルメットをかぶった会社員の人達が次々と広場に避難する姿が見えました。
道路沿いの牛丼屋さんでは、店先にラジオを置き、道行く人々に情報を提供していました。

今回の大震災で、ラジオの力が見直されています。
幾度となく繰り返される津波の映像よりも、自分の欲しい情報を手に入れたいという人たちがラジオに耳を傾けました。
私は、今まで、あの時ほどマイクが恋しいと思ったことはありません。
正確な情報をすばやく伝えたいと。
慌ただしく時間が過ぎる中、リスナーさんからのメールやファックスで一番多かったのが、いつもの声を聴くことができて、安心しました、ほっとしました。というもの。
この時、どれだけいつも通りが大切なのか、必要であるかが身にしみました。だから、1日も早く、いつも通りの、元通りのふるさとにしていかなくてはなりません。

 震災後、1日だけお休みをいただいて、福島に行くことができました。
ラジオで、被災地の声を届けようという事でしたが、当初、私のなかでは葛藤がありました。
もちろん、福島に行って多くの人の声を届けたい。でも、浜通り、中通り、会津地方を周り、困難に直面した人達の現状、思いを伝えるには、一泊の日程ではあまりにも少なすぎる。
そんな簡単なものじゃない。もっと丁寧に取材したい、、、。
制作スタッフに訴え、話し合いましたが、やはり、仕事を休めるのは1日のみ。スタッフは、福島出身の唐橋ユミの目線で見聞きすることに意味がある。欲しいのは生活感だと話してくれました。
その時、私は、想いが強いだけに自分で勝手に重い荷物を背負おうとしていたのだと気がつきました。限られた時間のなかで精一杯向き合おうと、取材に出ました。

 福島市内の餃子店。私が地方局に勤めていた頃、何十回も通ったお店です。
震災後も電話で安否を確認してはいましたが、ご夫婦のにこやかな表情を見て少しほっとしました。

 しかし、震災について話をするご主人の顔からは、当時の混乱した様子が伝わってきました。
東京から来たテレビクルーが、近くで中継をしていたが、突然、「ここ、やばいですよ!、、、やばい」と言い残し、その日に急いで帰って行ったと。
でもご主人は、詳しい情報は知らされていなかったので、何がどれだけやばいのか、不安が募るばかりだった。
数日後、テレビで放射線量の数値を知らされ、落胆した。周りの飲食店は店を閉めて出て行く人もいれば、一度出て、また戻って来た人もいる。自分たちは、来てくれるお客さんがいる限り、店を閉めるわけにはいかない。普段は朴訥で口数少ないご主人が声を荒らげる姿に、私はくやしさ、怒り、せつなさが混じり合いました。

「でも、、、」とご主人。「目に見えないっていうのはほんとに怖いですね。」小さな声で強く訴えていました。

また、飯舘村にいた両親を福島市に呼び寄せ、小さな家を買い、住み始めた人もいます。
しかし、「なんであの歳になってから住み慣れた土地を離れさせなっきゃなんねんだろ、、、。」との言葉に、やり場のない想いを感じました。

 失っても自分たちの力で取り戻せるものはある。でも、身体を蝕む見えない恐怖に対しては、いくらがんばっても、またいつ一瞬にして積み上げたものを壊されるかわからない。どうがんばればいいのか。
答えが見つからない中、前へ進み始める速度は人それぞれです。人生観が変わったという人も多いようです。
喜多方市のある男性は、いままでお粗末にしていた事を丁寧に、またいちから始めることにしたと話してくださいました。それは、仲間たちと何時間も話をして、恐怖感も挫折感も口にして共感したことで、やっと辿り着いた思いです。

 私は震災後、改めて実感しています。言葉の重みです。
数ヶ月が経ち、それぞれが持ちうる情報の格差がはっきりと出始めています。テレビだけ、新聞だけ、また、それだけでは信用できないことが明らかになり、他の媒体から情報を得る人。
そんな中で、自分と違う考えを持つ人を攻撃し合い、そこで言葉を失ってしまう事があると耳にします。
自分の能力で処理できないことに対しては思考停止状態になるといいますが、言葉を失っては、理解し合うことも前に進むこともできません。理解しあう事は、労力のいることですが、今、人の痛みを想像できる言葉が必要です。
阪神淡路大震災では、高齢者の多い仮設住宅で、閉じこもりがちなお年寄りが多かった。そこで、世話人を立て、皆が集まれるコミュニティールームを作ってお茶会を開き、少しずつ言葉を交わしていった。すると、いろいろな要望が出てきた。次第に、お年寄りの声なき声をまとめる自治会のようなものができ、自発的に言葉を交わし、前へ進んでいくようになったということです。
また、ボランティアが懸命に動いてくれたり、自分の家が被災されても住民のために尽力している人達の姿を見て、ありがたいけれど、なかなか口に出せないことがある。それは、感謝しているけれど、欲しいのは仕事だということ。少しでも人のためになっているという充足感を求めています。

 目線をそろえ、触れ合い、言葉を交わす、人と人とのつながりこそが、大切な生命線です。
心の復興は時間がかかります。いつになるのかわりません。
 ただ、この世が無常であるなら、怒りの涙、くやし涙、むなしくせつない、悲しみの涙が、
一粒でも、うれし涙に変わる日が来ると信じています。