最近よく考えます。
善悪とは果たして誰が決めるのだろう、と。
「あれは正しい。」「それは正しくない。」というのは誰が何の権利を持って決めるのだろう、と。
人はそれぞれ違ったバックグラウンドを持って生まれてくる。
そのバックグラウンドの過程でできあがる性格や価値観は多種多様。
それを善悪の二種類に分けることなど不可能なのではないのか。
自分の考え以外を悪だと決めつけ排除しようとするのはあまりにも浅はかではないのか。
宗教問題もそう。
婚外子の話もそう。
政治もそう。
「正しい」と思う価値判断は、人によって様々だ。
それを排除しようとするのではなく、寄り添う形を取れないものか。
排除するのではなく、歩み寄ることはできないのか。
違う形があること、それを認めることはできないのか。
1か100ではなく、善か悪ではなく、50やグレーがあっても良いのはないのか。
同意や非難ではなく、少なくとも理解を示すことはできないのか。
現代は情報化社会だ。
以前よりよりいっそう価値観は多様である。
今生きているフィールドとは違う、外の世界があることを人は知っている。
そのフィールドの外を全て悪だと認めることは、あまりにも偏ってはいないか。
狭い世界で生きていないか。
情報が錯乱するこの現代で、私たちは新しい生き方を求められている。
善か悪、白か黒、1か100。
それを明確にする判断する社会は終わったのかもしれない。
明確にするのではなく、寄り添い共存する世界を。
答えは1つではなく複数あることを忘れない。
他者を認め、折り合いをつける。
生きにくい世の中だが、新たなtheoryを見つければそれは案外簡単なのかもしれない。