5月5日、いつもどおり高岡駅の南口付近で托鉢をしていると、托鉢をするようになって初めて、他の宗派の方が路上布教に来られた。

僧侶としての私の希望は出家修行者である僧侶と在家の皆さんが気軽に交流できることにありますので、他の宗派の方の路上布教も歓迎なのですが、私は真言宗の教えを選んで出家したのでいくら私にその宗派の素晴らしさを説いたところで無駄なのですよ。

出家修行者が自分の宗派の教えが最も正しいと信じるのは当然のことです。

もし正しくないと考えるなら正しいと思うものを学べばよいだけのことだから、自分の信じる宗教を揺ぎ無く信じることは出家修行者への第一歩と言えるでしょう。

そこから敷衍して、自分の宗派を信じていない人が間違っていると感じるのは傲慢ではあっても理の当然かもしれません。

しかし過ちを指摘したうえで救ってあげたいと思うのは欲でしょう。

そして私は既に信仰を固めているのだから、その欲は決してかなうことが無いので彼らは憤りを感じることになる。

相手の立場や状況もわきまえず、一方的に自分の正しさだけを説く布教が成功するはずもなく、熱心に教えを説いても報われないことに愚痴の心をいだく。

この流れはお釈迦様が説いた三毒の貪瞋痴をそのままなぞっています。

経典はどのようなものでもお釈迦様が説いた正しい教えですので、彼らがどの経典に依拠し活動していてもそれは仏教としては正しいものです。

しかしながら活動によって煩悩を生み出し、三毒に染まるというのであれば宗教の実践という面で間違っていると言えるでしょう。

他の宗派の方がどのように活動するかは、その宗派さんのことなので私が何かを言うことはないのですが、彼らの活動を見て、自らが正しいと信じることは大切だけど、相手のためにそれを治してあげようなどという欲は持たないようにしないといけないなと感じました。

皆さんも自分の正しさを振りかざして相手を思うがままにしたいと思うとき、煩悩を生み出しているのだということを思い出していただけたら幸いです。