『注好選』上巻第二十八話は「桓栄は己を励ます」というタイトルで、桓栄という人は父に異見されても貧しい中で読書をやめず、後に栄達したという話である。この話について新日本古典文学大系本は「現拠不明。桓栄については、同名の人物で、後漢の竜亢の人、字は春卿、関内侯に封ぜられたのは同人か。」とある。桓栄とはどのような人物なのであろうか。

 小川環・木田章義『注解 千字文』(岩波書店、1984年12月、146頁~147頁)は

 

101堅持雅操

102好爵自縻

 

のところで、李注の

 

後漢の桓栄は、字は春卿、沛国の人で、七歳のころ、家が貧しく、人に雇われて働き、猪(ぶた)の番をしていたが、(その時でも)書物を手に持ち、それを読んでいた。叔(おじ)が「こんなに貧しいのに、本を読んだりしてどうするのだ」といったが、栄は志を守って、あらためなかった。本を持って耕作し、休憩になるとすぐにそれを読んだ。のちに五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)に通暁し、三百人の弟子に教授した。光武帝(後漢の第一代の皇帝)のとき、太傅(天子の補佐役)となり、その後には関内侯(爵位の一つ。領地はなく、都に住んだ)に封じられた。その子供や姪たちは、みな有名な高い身分の人になった。兄の元卿は、「私はもともと農民の子である。学問がこんなに貴いものとは知らなかった」と言った。

 

を挙げ、注を付け「ここではおじが嗤い、兄が後悔することになっているが、族人(親類)の元卿が嗤い、後に元卿自身が後悔する『後漢書』巻三十七、桓栄伝の方がすっきりしている。」としている。新日本古典文学大系の注は正しい推理をしていたことになる。異見をした人がここでは叔父で、『後漢書』では親類で、どちらも『注好選』の父とは合わないが、中国ですでに話にバリエーションがあるので、意見した者を父とした文献もあるはずである。あるいは『千字文』の注釈書の一つででもあろうか(言うまでもなく、博士王仁が『千字文』と『論語』を日本に持って来たのが日本への漢字の公伝ということになっている)。この辺は中国文学の専門家の助力に期待するしかないだろう。

 一応、桓栄について明らかにできた。

 

<注>『注好選』のテキストは馬淵和夫・小泉弘・今野達校注『三宝絵 注好選』(岩波書店、新日本古典文学大系、1997年9月)。

 

 

 

 

 

 

縻沛