『沙石集』は諸本によって著しい相違が見られる本である。ここでは古本系の市立米沢図書館蔵興譲館旧蔵本を底本とする小島孝之校注・訳『沙石集』(小学館、新編日本古典文学全集、2001年8月)を用いる。この本の巻第九ノ十五「畜類も心ある事」は次のような説話である。

 

 洛陽に、騒ぐ事ありて、坂東の武士、馳せ上る事侍りき。ある相知りたる武士、引かせたる馬の中に、殊に憑みたる馬に向ひて、「畜生も心ある物なれば、聞け。今度、自然の事もあらば、汝を憑みて、君の御大事にもあふべし。されば、余の馬よりも食はすべし。返々、不覚すな。頼むぞ」と云ひて、舎人に仰せ付けて、別に用途を下したびてけり。

 さて京へ上り侍りぬ。この舎人、俄かに物狂はしくして、口走りて云ふ様、「殿の仰せに、『汝を頼むなり。自然の大事もあらば、不覚すな』とて、別に物を添へて下したべば、いかにも仰せにあひ参らせんと思ふに、おれが物を取り食らひて、我に食はせねば、力もあらばこそ、御大事にもあはめ。憎き奴なり」と云ひて、様々に狂ひけり。とかくすかしこしらへて、治りてけり。かの子息語りき。

 畜生なればとて、誑惑すべからず。心あるべきにや。

 

 殿が特別に頼りにして、他の馬より多く飼料を与えたはずであったのが、世話役の舎人がその分の代金を横領してしまった。今日に上る途中で馬の霊魂が舎人に憑依し、その事実を明らかにするという筋である。全体に日本の武家社会に適合した話になっているが、日本で話が発展、変化したものであろう。特別に飼料を貰うはずであったのが世話役に横領され、それを馬自身が指摘するという骨格は、次の『イソップ寓話集』(中務哲郎訳、岩波文庫、1999年3月、238頁)「馬と馬丁」と一致する。

 

 馬丁が馬の餌の大麦を宿屋の主人に売り払い、夜どおし飲んで、次の日は一日、毛並を揃えたり櫛をかけたりしてやった。そこで馬の言うには、

 「本当に僕に綺麗になってほしいのなら、餌を売るのはやめておくれ」

 

 おそらくは仏典にも入ったインドの説話が、日本とヨーロッパに入り、分化したものであろう。『沙石集』の方は日本の武家社会に適合しているので、『イソップ寓話集』にある形がより原話に近いと予想される。

 日本文学と『イソップ寓話集』がかかわりを持った例であり、説話の世界的移動の様相を垣間見せる例であろう。