あれから5年です。

被災で亡くなった方々には
ご冥福をお祈りいたします。

あの日、あの時、
私は転勤で住んでいた福島のいわき市で、
3ヶ月になったばかりの娘を抱っこしていました。
だんだん強くなる揺れに
ガシャンガシャン揺れる棚に
歩けないほどの揺れに


私は、
ただ
ただ
娘を守ることしか考えられませんでした。

たくさんの安否の電話やメールをいただきました。
あの時は心配してくれて本当にありがとう。


避難した体育館には大勢の人が集まり、
福島でほとんど知り合いのいなかった私は
娘と、広い体育館に用意された
たった一つのストーブの前にいました。

その日は、
大地震で終わると思っていました。



そして家族3人くっついて、夜を明かしました。

お昼すぎに、私の元に
ある眼科を開業されている方が
「うちの病院にベッドが空いてるから来ない?」と言ってくださいました。

寒い時期だし、娘も3ヶ月で感染なども心配でした。そこで、眼科に行かせてもらうことにしました。

そして原発の事故を知りました。

私は、本当に心配で、、
眼科の先生の奥様の前で大号泣。。
ガス、水道も止まっている中、
奥様は
カレーを作ってくれました。
非常事態に本当に温かく迎えてくれて
貴重な食料まで使ってくれて
本当に人の温かみを感じました。
あの時、声をかけてくださり、本当にありがとうございました。


避難区域が広がる中、
私と主人は話し合い、
できるだけ遠くまで行こうということになりました。夜8時頃だったと思います。

南下して行こうと出発したんですが、
街は真っ暗。
走れど走れど、街は真っ暗。
当然、信号も真っ暗。

やっと明かりが、見えた街は水戸でした。
出発して何時間走ったかもわかりません。

水戸で泊まらせてもらえるホテルを探しましたが、水戸も揺れが激しく、ホテルの耐震が何とも言えないということで断られ、
また真っ暗な街をひたすら走りました。


そしてまたどれだけ走ったか、、
日付は変わっていました。
次に明かりがついていた街は、土浦でした。
どうにかホテルを見つけ、また交渉。
事情を話し、何とか泊まらせていただけることになりました。
しかも、「お互い様ですからお代は結構です。」と。
本当にあの時はありがとうございました。


たくさんの温かさに触れ、
感謝は書いても書いても書きつくせません。

震災の話には、まだ続きがありますが、
それはまたいづれ書かせていただきます。

私はいつか、大好きないわきを訪れ、
お礼を言って回るつもりでいます。

私は行動力があり、スピード感があると
最近、何人かの方に言ってもらいました。


それは、多分、この震災も影響しています。

【いつか】やろうと思っていても、

その【いつか】はやって来ないかもしれない。

やれなかった事を後悔するにちがいない。
そんな気持ちが深く心に刻まれています。


最後まで読んでいただいてありがとうございました。