実感とはひょんな時にやってくる。
昔、箱根のハイランドホテルの喫茶室で外の景色を眺めながらコーヒーを飲んでいたら、突然「こんな幸せな瞬間を今までに感じたことがあっただろうか」と思うくらいの幸福感を感じたことがあった。
その後、度々ハイランドホテルに行ったが、ついぞその時に感じた幸福感の再来はなかった。
似たようなことは他にもある。
20歳の頃に奈良の知り合いの案内で法隆寺の百済観音を見たとき、しばしその場から動けないほどの感動を覚えた。
2年ほど前に再び法隆寺を訪れ百済観音を見た時は「この菩薩像じゃない」と一旦はその場を通り過ぎてから再び「やっぱりこれだったかなあ」と思う始末であった。
金堂が再建され、新しくなった明るい堂内に安置されていたと言う視覚的な違いも大きかったのだと思うが、この実感のギャップには驚いた。
いずれも想定していなかった感覚が突然やってきた時に、その記憶は鮮明に残っているのだということは共通している。
お恥ずかしい話だが、家庭での幸せなんていうのもひょんな時に感じるもので、家族旅行に行っただの、音楽を聴きに言っただのと言う特別な時間に感じるのかと思いきや、家内がテレビのおバカな番組を見て笑っている顔を見て幸せを感じたりしている。
だから、日常にない特別な瞬間にだけ幸福感を覚えたり感動したりするわけでもないのだ。
まさに、「ひょんな時」に感じるのだ。
ハイランドホテルも百済観音もおバカな番組を見て笑う家内も、そこに100パーセント私に実感を与えてくれる何かがあるわけではなくて、半分或いはそれ以上の割合で私の中にある何かが作用しているのだと思う。
最近は「癒し」と言う言葉をあちこちで聞くようになったが、「癒される」と言う実感は外にそれを想定した瞬間にその効用は半減してしまうのではないだろうか。
音楽もふとした瞬間に心を揺さぶられ、或いは和らぐのだが、記憶に残る音楽は必ず私の中で想定していない何かを感じた音楽だけだった。
「癒しのミュージック」と謳っているCDなどを見るとゾッとしてしまうのだが、それがどんなに良い音楽だったとしても「癒し」を想定することによって、本来のその音楽の持つ魅力が半減したり、思い込みの中だけで満足した気になってしまうのではないか、「癒しの〇〇」というタイトルを見ると、ついそのように思ってしまう。
目に見える形として外に想定しないと安心できない現代の世相を反映しているのかも知れないが、そのためにかえって実感すると言う感覚が薄れてきているように思えてならない。
実感はひょんな時にやってくる、確約されているものでもなければ保証もない、ただ感じられる機会は少なからず確実にあるのだが、外の目に見えるものにばかり心が奪われていると、ひょんな時にやってくる目に見えない感覚を見過ごしてしまうのではないだろうか。
昔、箱根のハイランドホテルの喫茶室で外の景色を眺めながらコーヒーを飲んでいたら、突然「こんな幸せな瞬間を今までに感じたことがあっただろうか」と思うくらいの幸福感を感じたことがあった。
その後、度々ハイランドホテルに行ったが、ついぞその時に感じた幸福感の再来はなかった。
似たようなことは他にもある。
20歳の頃に奈良の知り合いの案内で法隆寺の百済観音を見たとき、しばしその場から動けないほどの感動を覚えた。
2年ほど前に再び法隆寺を訪れ百済観音を見た時は「この菩薩像じゃない」と一旦はその場を通り過ぎてから再び「やっぱりこれだったかなあ」と思う始末であった。
金堂が再建され、新しくなった明るい堂内に安置されていたと言う視覚的な違いも大きかったのだと思うが、この実感のギャップには驚いた。
いずれも想定していなかった感覚が突然やってきた時に、その記憶は鮮明に残っているのだということは共通している。
お恥ずかしい話だが、家庭での幸せなんていうのもひょんな時に感じるもので、家族旅行に行っただの、音楽を聴きに言っただのと言う特別な時間に感じるのかと思いきや、家内がテレビのおバカな番組を見て笑っている顔を見て幸せを感じたりしている。
だから、日常にない特別な瞬間にだけ幸福感を覚えたり感動したりするわけでもないのだ。
まさに、「ひょんな時」に感じるのだ。
ハイランドホテルも百済観音もおバカな番組を見て笑う家内も、そこに100パーセント私に実感を与えてくれる何かがあるわけではなくて、半分或いはそれ以上の割合で私の中にある何かが作用しているのだと思う。
最近は「癒し」と言う言葉をあちこちで聞くようになったが、「癒される」と言う実感は外にそれを想定した瞬間にその効用は半減してしまうのではないだろうか。
音楽もふとした瞬間に心を揺さぶられ、或いは和らぐのだが、記憶に残る音楽は必ず私の中で想定していない何かを感じた音楽だけだった。
「癒しのミュージック」と謳っているCDなどを見るとゾッとしてしまうのだが、それがどんなに良い音楽だったとしても「癒し」を想定することによって、本来のその音楽の持つ魅力が半減したり、思い込みの中だけで満足した気になってしまうのではないか、「癒しの〇〇」というタイトルを見ると、ついそのように思ってしまう。
目に見える形として外に想定しないと安心できない現代の世相を反映しているのかも知れないが、そのためにかえって実感すると言う感覚が薄れてきているように思えてならない。
実感はひょんな時にやってくる、確約されているものでもなければ保証もない、ただ感じられる機会は少なからず確実にあるのだが、外の目に見えるものにばかり心が奪われていると、ひょんな時にやってくる目に見えない感覚を見過ごしてしまうのではないだろうか。